山田風太郎「伊賀忍法帖」
1、あらすじ
この作品の面白さは、すべての男の登場人物が女によって失敗するということだ。惑わせた女は三人、篝火、漁火、右京太夫だ。
篝火は遊女であるが、非常に人気のあった遊女だ。若い伊賀忍者である笛吹城太郎と出会い、夫婦になると誓い合う。伊賀忍者には所帯を持つにも許しがいる。その許しを伊賀忍者の棟梁、服部半蔵から得ようと、篝火と城太郎が伊賀の里へ向かうところから物語は始まる。
二人は奈良に入ったところで、七人の坊主に襲われる。七人の坊主は根来寺の僧兵の格好をしている忍者である。その忍術は果心居士という伝説の忍者から授かった。城太郎は半蔵から特に目をかけられた忍びであったが、七人に襲い掛かられ、負けてしまう。篝火は七人に連れ去られる。
七人が向かった先は、松永弾正が待つ、信貴山城だった。
七人は果心居士の命令で松永弾正の望みをかなえようと奔走していた。そのためには女人の体が必要だった。それも何人も、何人も。(規約上、これ以上詳しく書いていいかわからないのでかなりぼやかす。察してほしい)その体から集めたエキスを、名器「平蜘蛛の釜」で煮詰めると淫石という雲母のかけらのような石を集めようとしていた。それを混ぜたお茶を女に飲ませると、飲んだ直後に見た男に惚れてしまう。惚れるというより狂ってしまう、という恐ろしい石だ。
どうして松永弾正が淫石を欲するのか。それは右京太夫という女が欲しかったからだ。右京太夫は三好義興の妻だ。松永弾正は三好家の家臣である。つまり、主人の妻に松永弾正は懸想していた。
篝火の体は普通の女人数人分のエキスが出る。だから、七人に狙われたのだ。
篝火は城太郎と夫婦になると決めたときから貞操を守ると決めた。連れ去られ、それを侵されそうになったとき、城太郎から仕込まれた忍術を使って、自分の首を切り落とす。だが、七人の根来僧のうち、外科的な忍術を使える者がいて、篝火の首と漁火の体を、篝火の体と漁火の首をつなぎ合わせた。実は篝火の顔は右京太夫そっくりなのであった。篝火を見た松永弾正は篝火を七人に供するのを良しとせず、自分のものにしようと考えた。根来僧は篝火の体が欲しかった。松永弾正は篝火の顔が欲しかった。皆の需要は満たされた(松永はこれで納得するのか、と不思議だったが、納得するのである)。
さて、七人に負けた城太郎は、からくも一命をとりとめる。助けたのは、柳生の里の主、柳生新左衛門であった。のちに服部半蔵からの命令もあり、城太郎は七人に復讐を誓う。
というのが長々書いたあらすじだ。
2、感想
かなり複雑だ。だが、間違っているかもしれないが、山田風太郎はこの話を頭から、付け足し付け足し書いているような気がする。
城太郎、松永弾正、根来僧の七人、そして三好義興までもが登場する女性に翻弄され、失敗しているように思う。主人公城太郎がまず、許しを得ていないのに、勝手に許されると勘違いして篝火を伊賀の里に連れて行こうとしていることが失敗だし、松永弾正が主人の妻にまで懸想するのも間違い。
そんななか果心居士だけが笑っているように見えてくる。男には三種類の急所があるといわれる。いわゆる「富・名声・地位」だ。これに加えて女なのであるが、これは入れられていない。実際には、これも入るだろう。松永弾正は女も加えた四つの急所、すべてにおいて弱い。
3、司馬遼太郎対山田風太郎
この本を読もうと思ったきっかけは、沢木耕太郎のエッセイ集だ。伊賀忍法帖と司馬遼太郎の「梟の城」を比べて、伊賀忍法帖のほうがおもしろいと書いていて、ならば読んでみようと思った。
エグイ内容なのに、スイスイと読まされてしまう文章力こそが妖しいと感じてしまった。山田風太郎は「金瓶梅」を読んで懲りた。もう読むまいと思っていた。が、懲りずに読むと、やはり山田風太郎だった。エロ・グロのオンパレードなのである。それも慣れてくるとなんてことはない本だ。若干忍術の描写などが子供じみている。
この本、「漫画サンデー」に連載していたらしい。この本、「湯けむりスナイパー」を連載していた雑誌だから、青年以降に読む雑誌か。はじめ、少年誌に書いていたのかと思った。それにしては刺激が強すぎる。
最終的に山田風太郎対司馬遼太郎、どちらが上かという話だ。結局、好みなのであるが、文章力や想像力(妄想力?)では山田風太郎の方が上なのかもしれない。司馬遼太郎はどちらかといえば、在野の歴史研究家の趣で、その名前の通り、司馬遷(にはるかに及ばないから遼太郎)のような文章を書いていた作家だ。タイプが違うのである。
小説家としては断片の情報から想像力を膨らます山田風太郎の方が上だろう。
司馬遼太郎は情報量の多さで勝負するタイプだ。「坂の上の雲」を書くとき、神田の古本屋買いにトラックでやってきて、資料を買いあさっていったという。だから、情報量では司馬遼太郎の方が上だろう。
どちらがおもしろいか。それは甲乙つけがたい。
個人的には司馬遼太郎だろうか。男女の痴情を描くにも、山田風太郎はなんともグロくて、それが自然の営みである気がしないのである。描くのであれば、そのくらいカラット描かれている方が好みだ。
※当然、角川映画なのでテレビなどでもやることを考慮に入れて、エロ・グロのあたりはかなり薄まっている。見て面白いかどうかは微妙。
「風の如く」富樫倫太郎
安倍晋三が三選を果たした。
だが、別に歴史書など専門書を読む気にもなれない、というのが我々の大方だ。
ならば小説で読めばいい。
この本は、吉田松陰という人物の幕末の心理の変遷を追う物語だ。
視点は風倉平九郎という人物だ。おそらく、この人物はモデルがいるのかもしれないが、実在の人物ではないと思われる。
富樫倫太郎の「軍配者」シリーズの主人公も「風」の字がついた。
のちに軍配者(軍師よりも多くの知識を有している。足利学校などで専門教育をうける)になるのだが、名前は風摩小太郎。風魔の小太郎ではない。
風という時に富樫倫太郎が思い入れがあるのだろう。
さて、当小説の主人公平九郎の父は、蟄居させられてしまう。
年貢を徴収する役目を仰せつかったのだが、民のことを考えすぎて藩の不興を買う。
農民たちは農地をごまかして年貢を納めていたのである。それは金持ちになりたいというよりも、そうしなければ生きていけないからそうしたのである。
それを見て見ぬ振りをしたのが、平九郎の父親であった。
蟄居先は農村である。士分ではなく、農民になってしまった。監視されながら日々の農作業に追われ、わずかばかりの給金をうけ、なんとな生活をしのいでいる。父はことが起こってから体調を崩している。だから長男である平九郎の肩に、一家の生活を支えねばならないというプレッシャーがかかるのである。
平九郎には夢があった。それは学問をすること。
藩校である明倫館というエリート養成所に平九郎は通っていた。しかし、生活が逼迫してからはそれも叶わない。
ある日、そんな人間でも学問をさせてくれる夢のような塾があると紹介される。
その塾を開いているのは、吉田松陰で彼はその当時、やはり藩のお咎めで自宅幽囚の身になっていた。実は吉田松陰という人は非常に優秀な人で、藩の学問の先生までしていた。ところが、黒船に乗ってアメリカに行こうとして、捕まったのである。
松本村で松蔭は塾を開いていた。
そこには個性あふれるメンツが集まっていた。
久坂玄瑞、高杉晋作、品川弥二郎、伊藤俊輔、などなど。彼らと交わりながら、ただの暗記ものでない学問を身をもって学んでいく。
というのが、はじめの方のあらすじだ。
この塾というのが非常に激しい。
平九郎が農作業に追われてなかなか来れないとなると、代わりに久坂玄瑞がやってくる。
もともと司馬遼太郎の「世に棲む日々」での吉田松陰もそんなところがあるのだが、みなこの情にほだされていく。
ところがそんな松蔭先生(山口では今でも、「先生」といえば松蔭先生らしい)は徐々に言動や行動が尖っていく。
きっかけは日米修好通商条約である。
アメリカが夷狄を払おうとしない。嫌がる朝廷をないがしろにしている。この一点に怒ってしまうのである。
このころの志士が攘夷から倒幕へ行動が移る理由の一つがこれだろう。
弟子たちの多くはそんな松蔭先生に感化され、行動が過激化する。
「僕は忠義をする積もり 諸友は功業をする積もり 功業をなす積もりの人天下皆是れ 忠義をなす積もりは唯吾が同志数人のみ」
と激しい叱責を喰らってしまう。絶交までされてしまう。
それでも、松蔭先生を慕うのであるが。
他人に影響を与える人、まっすぐに生きすぎる人は、ときとして狂っているように見える。狂ってはいないのであるが。そんな激越な生き方が非常にうまく描けている。
富樫倫太郎はこういうの書かせると上手い。
「すべての男は消耗品である 最終巻」村上龍
村上龍はこの「すべての男は消耗品である」というエッセイシリーズを三四年間続けてきた。どうしてこれを終わりにしたのかという理由をあとがきで書いている。ずっとこのシリーズの原稿を受け取り続けてきた編集者が引退するから、ということだ。
なにかきっかけがないと長く続けてきたシリーズをやめるというのはやりづらいのだろう。
以前、このエッセイを取り上げて、「とうとう村上龍は不機嫌な老人」になってきた、ということを書いた。このエッセイの面白いことは、そこにいる語り手が、村上龍自身のようでいて、架空のキャラになっているところだと、個人的には思っている。
その「語り手」が急に老けて不機嫌になっていて、「元気溌剌な老人になんか絶対ならない」とか、「いくつになっても元気で登山をするような生き方は糞だ」的なことを書いていた。「若い奴は死んでいる。なにも刺激がない」とか「六〇年代から何も変わっていないんだよね」とかいっていた。
今回のエッセイでも基本的にはいっていることは一緒だ。
ただ、政治的なイシューがまるでなくなっていることが一番大きな差だ。身近な話と懐かしい話に終始している。
「昔若かった頃から、年上がみなで自分の話を聞きたがった」という文言が随所に出てくる。「今は若い奴らが自分の話を聞きたがるが、私が若い奴らから話を聞きたいとは思わないし、若い奴らは私に新しい話題は提供できない」と続く。
そう「語り手」はとうとう耄碌したのだ。ぼけたのである。
もしかすると、周囲の「若い奴ら」は話したがる「語り手」の話に嫌々つきあっているのかもしれない。私はけっこうお年寄りの話を聞くのが好きだが、基本普通の若い奴は年上の話を聞くのが嫌いだ。お年寄りの知見や経験が必要ないと思いたがる若い奴は実に多い。
好奇心が強くて、向学心がある若者というのは少ない。受験勉強で良い大学に行ったかどうかとはこれは比例しない。好奇心が強いやつはどんなシチュエーションにあっても、好奇心を発揮するだろう。
人の話はたとえつまらなくても、「つまらない」と確認したくなる。そうすると、なにか発見があるかもしれないからである。それが好奇心が強い人間というものだ。だが、そんなことをしている若い奴というのは皆無だ。
そういうことに気づいていないのである。
「高度成長期やバブルが異常で、今が普通なのだ」という文言が結構終盤で出てくる。とうとう「語り手」も気づいたか、という思いがした。長くかかったなとも思った。
不機嫌な老人期までの「語り手」はどこかに日本全体がドライブしないことへのいらだちがあった。それが達観したのである。
人生がうまくいかないとき、「これが普通なのだ」という魔法の呪文を唱えて、自分をまずなだめる必要がある。そうしないと、人生が上手くいっていないときなので、焦って判断をミスりまくる。まずは現状を受け入れて、そこから構築しないと、反撃も出来ない。
「語り手」は耄碌したとはいえ、バカではないのである。
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「新撰組局長首座 芹沢鴨」峰 隆一郎
峰隆一郎という名前を見て、すぐにピンとくれば良かった。
隆慶一郎という作家が好きだ。「一夢庵風流記(マンガ「花の慶次」の原作)」や「吉原御免状」、「影武者徳川家康」、「捨て童子・松平忠輝」を書いた。
名前が似ているので、影響を受けた作家なのかと思いきや、デビューは峰隆一郎のほうが早かった。それを思わせる特徴が他にもある。
特に、「吉原御免状」などでは性的なシーンがたくさん出てくる。
この「新撰組局長首座 芹沢鴨」にも性的なシーンが多く出てくるのだが、「吉原御免状」などとは質的に違う気がする。
なんとなく陰気なのだ。
もちろん話を進めていく上で、性的なシーンは必要だ。その性格故に、命を落とすのだから。
ただ、この陰気さ故に、いくつかのシーンは読み飛ばした。
池波正太郎の鬼平犯科帳などにもそう言うシーンがたくさん出てくる。
しかし「新撰組局長首座 芹沢鴨」と違って、とこかカラッとしていて陽気なのである。
そういうのが気にならない人は読んでみても良いのではないか。
「新九郎、奔る」ゆうきまさみ
正直を言うと、あまりおもしろくなかった。
主人公はのちに北条早雲と呼ばれることになる、伊勢新九郎である。
何がおもしろくないかというと、複雑な室町末期の状況をまんがによって説明していくのだが、これが複雑すぎる。平安末期と室町末期、江戸末期、とにかく政権が移り変わる末期の様相は説明が複雑になる。その上、説明しなければ話が進まない訳でもない。ある程度はしょってしまってもかまわないのではないか、と読んでいて思った。
登場人物の性格が小学生向きになっていて鼻につく。
新九郎の姉が妙に子ども子どもしているのだ。この後の展開を考えると、性格を急に変えなければならなくなるのではないか、と思った。
細川勝元の見た目がパトレイバーの後藤隊長、究極超人あ~るのあ~るだった。それに不満は特にない。
ゆうきまさみということで、ある程度の読者は読むだろうという目算があるのか、一巻は退屈だった。普通は序盤の早めに、盛り上がる部分を作るのだが、説明に終始して皆無だった。このつづきを読むかどうかは少し迷う。
「水木しげるの戦記選集」
コンビニで売っていておもわず買ってしまった。
戦記物というのは戦国時代の武将の伝記と同じで、勇ましく書いていく。
水木しげるの戦記もそうである。
主に海軍の戦記を扱っている。
そうなのだが、選集大激闘編の冒頭では、おそらく90年代半ば以降の水木しげる翁が登場し、その頃に流行った小林よしのりのゴー宣を読んだときの複雑な心境を語る。
ゴーマニズム宣言で描かれた戦争は、勢いが良く面白い。だが、水木翁に言わせれば、本当に戦争に行った人間が書いたものではない。
「ビンタの力」によって無理矢理行われた戦争を、まったくは肯定できないものであると水木翁は考えるのである。
水木しげるの戦記は、そんな筆者の思いがどこかに乗る。登場人物の一人を紹介する。
日本軍は「大艦巨砲主義」を取る者が多かったが、はやくから戦闘機の可能性に着目し、実際に訓練し、それによって作戦を成功させる。そのまま戦闘機開発を続ければ、戦況も変わったであろうが、日本は大艦巨砲主義に傾く。
もともと、五十六自身、アメリカとの戦争に反対していた。国力が違いすぎることを実際にアメリカで見てきたからだ。それでもやらなければならない、悲壮感が作品に描かれる。
このようにゴーマニズム宣言とは対局に、負けに向かって進んでいく悲壮感が前面に出ている作品集である。つまり、戦闘の勇ましさを描きつつ、反戦の思想が現れているのである。
ゴーマニズム宣言とは違う疲労感を読み終えると感じる作品でもある。
ああ玉砕―水木しげる戦記選集 (戦争と平和を考えるコミック)
- 作者: 水木しげる
- 出版社/メーカー: 宙出版
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必修すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む
こういう本を読むのは、邪道なのであるが、以前短編小説の集いでよく出品されていた方が、クトゥルフ神話大系をテーマに小説を書いていらした。そのクトゥルフ神話体系に関する知識がまるでなかったので、読む機会というのを探っていた。
コンビニでこの本の表紙を見たときに、クトゥルフ神話大系についての作品もあるということで購入した。
結論からいうと、クトゥルフに関しては、あまりにも基本的な作品しかなくてまるでわからなかったというのが本音だ。
本当はアウトソースというか、スピンオフというか、様々な作者がクトゥルフ神話大系をテーマに様々な作品を展開している。その情報のいったんでも分かればど期待していた。
代表的な文学作品がいろいろ並んでいてこういう機会がなければ読まなかったであろうものもたくさんあり、その予要約はちょっと面白かった。例えば葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」や田山花袋「田舎教師」、菊池寛、ツルゲーネフ、押川春浪、若草物語などがそうだ。
面白い作家を探すと言う意味でもこういう本を読んでお気に入りを探すと良いだろう。そこから他の作品を読んでほしいと思う。
理由はわからないが、絵柄が水木しげるに似ていてそれも購入した理由であった。
必修すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。 (torch comics)
- 作者: ドリヤス工場
- 出版社/メーカー: リイド社
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定番すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。 (torch comics)
- 作者: ドリヤス工場
- 出版社/メーカー: リイド社
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「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ
カズオ・イシグロは2017年にノーベル文学賞を受賞した作家だ。日本人としてはノーベル文学賞と聞けば、村上春樹が頭に浮かぶ。カズオ・イシグロは村上春樹の弟分を辞任していたと思う。
今回、初めて作品を読んだ。ウィキペディアで見てみると、非常に寡作な作家だ。
「日の名残り」で89年にブッカー賞を取っている。ブッカー賞とは英語圏最高の文学賞だ。
さて、概略をあまり書いても仕方がない。作品に触れよう。
主人公は、クリストファー・バンクスという探偵だ。
昔、上海の租界で暮らしていた。租界とは、複数の国家が共同で管理した治外法権の租借地だ。ややおおざっぱだが、イギリスや複数国家の植民地をイメージすればいい。
クリストファーは上海で一人の日本人と出会う。それはアキラという名前の同年代の少年だ。子どものとき、お隣さんということもあり、アキラとは濃密な友人関係を結ぶ。だが、クリストファーの父が失踪し、その後母親が失踪することで、上海から叔母の住むイギリスへ移住することになる。そのままアキラとは会えなくなる。
二人はどこか、それぞれイギリスと日本になじめないという感覚を持っている。言ってしまえば上海人なのである。クリストファーは親から「もっとイギリス人らしくしなさい」と言われることもある。
その後、親の遺産を相続して、クリストファーはオクスフォード大学を卒業、探偵になる。探偵になり、社交界でサラと出会う。サラははじめクリストファーのことを相手にしないが、探偵として有名になると、サラから近づくようになり、徐々に二人の距離は接近していく。
やがて、サー・セシルと結婚したサラは上海へ行くことを決意する。第二次世界大戦前夜の上海で、それを食い止めようと奔走するサー・セシルを支えるために向かおうと思ったのである。それをクリストファーに告げると、クリストファーも、未解決の両親の失踪事件を解決するために上海へ向かう。
まず、「孤児」。
私たちが「孤児」だったころ。孤児はどうやったら孤児じゃなくなるんだろう。それがタイトルを見たときの感想だった。たとえば、結婚して子どもを持てば孤児でなくなるのか。孤独ではなくなるが、孤児であることには変わりはない。
それと「わたしたち」。「孤児」は複数であることが分かる。
「孤児」とは一般的に親をもたない人。この「親」を「国」に置き換えるとよく分かる。つまりは「わたしたちが国をもたなかったころ」という意味になる。大戦前の上海は混乱の極みにあり、国もなにも機能していない。兵士や国民に裏切り、裏切られ、パーティのようなものを相変わらず繰り返しているイギリス紳士淑女であるが、何もできずにうろたえるばかりだ。そんな連中を見てバンクスは落胆する。かつては大英帝国などと気取り、世界の覇者であったのに、人一人捜し出すのも躊躇してしまう。
植民地にいることが一番、大英帝国の凋落を肌で感じやすかったということだ。
そんな状況にいる「孤児」が上海にはたくさんいたということだ。もちろん、そこにはサラ、サー・セシル、クリストファーも含まれる。生き残るため、国もくそもない状態で戦う「孤児」たち。そんな様が描かれている。
事件を解決しようと奔走するクリストファー。
おそらく両親が監禁されているであろう場所を知る。そこは中国人たちが居住しているエリアであり、汚く細い路地が続く。そこを伝って無理矢理潜入しようと試みる。途中、傷ついた兵士になったアキラに遭遇する。最終的にこの兵士がアキラであったかどうかは明記されない。ただ、ここであった兵士がアキラである必要性はもはやない。日本人であっても、兵士がもつ状況の下ではもう国をもっていないからだ。彼は脱走兵であり、情報を中国側に売った人間であった。もう日本に居場所はない。彼も「孤児」である。
他のブログで感想を見ると、トップあたりにくるものが「つまらない」だったけれど、とんでもない!! 傑作です。英訳文で、しかも逐語訳のおそろしい日本語で、あれだけすごいと思える文章もなかなかないと思います。
なんせ、謎だらけ。
サラの設定すら完璧には語られず、クリストファーの、探偵の経歴もよく分からない。さっき書いたが、最後登場する兵士の素性もよく分からない。そこは想像力で補完すべきだ。両親の失踪を解決することが、第二次世界大戦を食い止める鍵になるはずなのだが、それがどうしてなのかも分からない。
ロンドンにいるときも上海でもみなそう言うのだけれど、(私の読解力がないのか)どうしてそうなるのかがよくわからない。それとも記憶をたどる話なので、「そうみなが言っていた気がする」ということなのだろうか。私はそう解釈した。
ただ、経歴など他の要素を隠されると、自然と国籍や文化など、人々の背後にある要素に注目する。そういう設計になっている。
記憶をたどる文章なので、ふわふわとしていてとらえどころがなく、正直はじめは苦痛だった。けれども、最後上海に来てからはピントがあった文章になる。両親の監禁場所に行くときの描写は、本当にその場所にいるように錯覚するほどきちんと書かれている。最後まで行って、「なるほどね」とならなかったら、酷評してやると思っていたが、やっぱすげえや。
「孤児」であったクリストファーはやがて、「孤児」ではなくなる。国を取り戻す。いや正確に書けば、国を背負わされる、という方が正確か。中国人を使うシーンがあるのだが、「協力」というより、横柄な態度で「使う」という方が正しい表現だ。それはきっと植民地支配をしていたイギリス人のようであった。
最後、クリストファーはこう語る。
「(探偵の仕事を)やろうとした。まさにそのとおりだよ。結局のところ何もならなかった」(カッコ部分は私が足しました)
探偵が出てきたとしても、殺人などの事件は防ぐことができない。なぜなら、起こった後だから。それには寂寥感が漂う。
人生はみなそうだ。
社会から隠遁しようとしても切り離すことはできず、巻き込まれ、ぐちゃぐちゃにもまれ、そうやってみな生きているのだ。優秀な探偵だからといって、その運命からは逃れられず、ただ事実を知るのみ。
そういう人生の哀歌がそこにはあるのだ。
ノーベル文学賞の受賞理由はこうだ。
壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた
ふうむ。よく分かる気がする。
うむ、気持ちの良いハードボイルド。ハードボイルドに勝者はいらないのである。
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司馬遼太郎のおすすめ作品。秋の夜長に読むなら、この読み方が良いです。【戦国編】
今週のお題「読書の秋」
司馬遼太郎、通史セット。
司馬遼太郎の作品は本人曰く「日本人がどうしてこんな戦争(第二次大戦)をしてしまったのか。それを考えて、あの当時の自分に書いて送った手紙だ」という趣旨のことを言っている。
本来は死ぬ前に「ノモンハン事件」という大戦中の小説を書くはずだった。それは叶わなかった。対人トラブルが原因だったと思う。
だから、司馬文学は通史で読むと理解が深まる。私が呼んだ範囲であるが、いくつか紹介しよう。「いや、こっちじゃない」ろいう作品もあるだろう。そんな紹介があれば呼んだみたい。
司馬遼太郎いわく、鎌倉時代に日本の土地制度などが固まっていった、らしい。
その鎌倉時代がどのように成立していったかは、源平の合戦周辺のことを見ないとわからない。
よく司馬遼太郎の作品で登場する一文がある。
それは「鎌倉武士のように、名乗りあって一騎打ちをするような美風はもはやなく」というような記述だ。武士の生き方としても規範はこの時代にある。
そういった意味で、一度読んで見ても良いだろう。
個人的に、源義経は人生初あたりに読んだ作品である。その人物像が根底から覆されてしまう、衝撃の人物像だった記憶がある。
これは応仁の乱前夜のお話。
日野富子などの人物が登場する。
将軍家の大奥での権力争いを描く。
この辺りで多くの社会制度が変わっていくのだが、その最たるものとして、司馬遼太郎は貨幣経済を意識していた。貨幣経済が浸透して人間がどう変わるのかがよくわかる。それも、幻術を通して、というのが面白い。
最後にシーンが圧巻。
司馬遼太郎は応仁の乱の原因を、相続制度の不備に求める。よくよく考えればその通りで、将軍個人に決定権があるから、候補が幾人も存在するときにもめるのである。
徳川幕府は逆に、厳格な相続ルールを作った。この相続の制度の欠陥は鎌倉時代もそうであった。
この乱を契機に戦闘の仕方に大きな変化が現れた。足軽による集団戦法である。集団戦法を巧みに取り入れた一人が北条早雲である。
相続制度の不備は地方の武士にも波及してゆく。そこここで小さな応仁の乱がおこる。
時代の変化や社会の混乱は、チャンスでもある。それをどう見るのか、という視点で読んでも面白い。
この話は二人の主人公で構成される。
斎藤道三は早雲など、前期戦国時代を象徴する存在として描かれる。下克上を成し遂げた人物である。
一方の信長は安土桃山時代、江戸時代に繋がる感覚を持った人物である。
道三は、出自がよくわからない。その身分から、油屋の主人となり、やがては美濃国を統べるようになる。楽市楽座などの制度を始め、商業を奨励する。
信長はとても合理的な人物。かれの育った尾張自体が商業が盛んな地域であり、いやいよ浸透してきた貨幣経済的な感覚をもっていた。しかし、兵は弱兵であり、となりの三河の兵を頼らざるを得なかった。
そして道三を師としながら、天下統一を目指してゆく。
商業的な合理的な感覚こそが、このころの最新の感覚であり、天下取りに必須であったと司馬遼太郎が考えていたことがよくわかる作品。
前期戦国時代は、局地的な小規模戦闘に明け暮れた時代。この雑賀孫一はそんな特徴を多分にもった武将。小規模戦闘では、向かう所敵なし。
信長が台頭し、武田信玄らが信長包囲網を形成していた時期。孫一は鉄砲集団雑賀衆のまとめ役。傭兵である。
孫一のキャラクターも面白い。女たらしといあキャラは和歌山の人に不評だったとか。
いわずとしれた、三英傑の二人だ
太閤記に関しては、あまり目新しいことはない。純粋に英雄譚として読めるだろろう。
「家康=勤勉」というイメージはもしかすると「覇王の家」から始まったのか。
そういった意味でも、読むと良い。
この人物が関ヶ原から変わる。
関ヶ原と城塞はセットで扱うべき作品かもしれない。
関ヶ原は言うまでもなく、東軍率いる徳川家康軍と、西軍率いる石田三成が激突した戦いだ。
明治時代になって、関ヶ原の布陣を見たドイツの軍人は、この戦いを西軍の勝ちと見た。陣形、地の利などを考えるとそういうことになる。主力軍は信濃の上田で足留めをくっていたし。
それを逆転して、東軍が勝つ。そこに、日本人の本質を見るのである。要するに、日本人に大義などなく、あるのは保身だけなのだろう。
最近、ゲームの影響で石田三成が人気だが、確かに負けた西軍の方が清々しく、肩入れしたい気分もわかる。が、信長好きの人間が、実際に信長様の人間が現れれば必死に杭を打つように、石田好きの人間は、いざとなると尻尾を巻いて逃げるのだろう。人間そんなものだ。
世の中を動かすのは理屈でも道理でもなく「感情」だ。それをまざまざと見せつけられるのがこの小説だ。
このときの大阪城の実質の主は淀君、大蔵卿の局を筆頭にした女性だった。家康はその女たちを政治的な交渉力で、ときには脅し、宥め、翻弄してゆく。作中では忠臣片桐且元まで、去らせてしまうのだが、それは家康による扇動だった。
宮城谷昌光の三国志の一巻では、徹底して宦官の害を書いている。宦官は言わずともお分かりだと思うが去勢された男性だ。それ故に後宮にも出入りでき、後宮の管理をしていた。
私的な空間で皇帝と会うこともあったので、歓心を得るのも容易かった。(ここからは私見)それに言葉は悪いが、道徳や倫理の埒外にいるものたち故に、私財を積まないと身の危険があるかもしれないと、私服を肥やす結果になったのかもしれない。
大阪城の当時の女性たちも、政治的には埒外にいるために、起こった混乱なのかもしれない。
最後に以前、仲間由紀恵か主演した大河ドラマの原作、「功名が辻」を紹介したい。
この作品はいよいよ始まる平和な封建制度とはどんなものなのかを教えてくれる。
関ヶ原の合戦のときに誰よりも早く手を挙げ、家康に味方するという功績くらいしか、大きな功績がない山内一豊とその妻、賢妻千代。
最終的に土佐の領主になるが、土地に元々住んでいた者たちから、恨みを買ってしまう。また、差別主義的な政策によって、彼らは郷士と呼ばれる様になったしまう。
そうこの話が、名作「竜馬がゆく」につながる。同じように、江戸時代中に幕府や体制に不満を持った連中が蜂起したのが、明治維新だ。ということは、その前時代である、今回紹介した作品群を読まないと、維新の志士の心情は本当に理解できないのかもしれない。
司馬遼太郎の作品は、日本人のことについて、考えたくなる作品が多い。夜長にそんなことを考えながら読むのも一興だろう。
吉川英治「松のや露八」
吉川英治の超長編はタイトルを見ると、だいたい時代設定や話の筋が分かる物が多い。ところが、「松のや露八」は一般的にはどの時代の話か、どんな展開なのかが分からない。
露八は明治以降に幇間になった後の名で、元々は土肥庄次郎といって、代々一橋家の家臣だった。ときは幕末の動乱の始まりの時期、会津藩主松平容保が率いる軍が、京都守護として上洛する辺りの頃から始まる。
お情けで剣術の免許皆伝を得て、家に帰るとき、同朋に飲みに誘われたときから運命が流転する。その金を出したのは、のちに第一銀行を設立する渋沢栄一であった。ひょんなことから三姉妹と出会う。その真ん中のお蔦に翻弄され続ける。
お蔦は淫乱な女で、庄次郎とつきあっては他の男に浮気する。しかも、酒代の四〇両をもって他の男の元に走った。その四〇両を工面するために闘鶏の掛け金をせしめる。これが遠因になって、父親は切腹して果てる。
流れ流れて、幕末の動乱に巻き込まれてゆく。
一方で弟八十三郎は勤王の思想にかぶれていた。流転を続ける兄庄次郎は八十三郎が幕吏によって捉えられるところも見てしまう。
あまり書いてしまうと面白くないので途中を端折るが、最終的に八十三郎は薩長の兵士として、兄庄次郎は彰義隊の一員として戦う。
この辺りが史実と違うと目くじらを立てる連中もいるのかな。
本当は八十三郎は彰義隊の一員として戦ったらしい。
(引用させていただきました)
森まゆみによると、「子母澤寛ならばこうは書くまい」と述べたらしい。
森まゆみは東京の出身。故立川談志家元によると、「本物の東京生まれは彰義隊びいき」なのだそうだ。だから、森まゆみがそう書くのはいたしかたない。感情的には非常によくわかる。
だが、このブログの書き手がどうして「史実をねじまげた」とまで、小説に対して強い言葉で書くのかは理解しがたい。読んでないのではないか。もしくは、読めてないのか。
というのも吉川英治には意図があって、そう書いたからだ。
吉川英治の実家自体が衰運によって、若い頃非常に苦労した。そのことについて書きたいから、兄は女で身を持ち崩し、弟は思想にかぶれてしまった、という設定にしたのである。時代に翻弄される父親の心情を書いたのだ。
吉川英治の作品には共通項があって、時代に翻弄される大衆を描くということだ。それは時代の変化とは関係がない。平家物語では麻鳥というオリジナルキャラクターまで登場させる。
だから、兄庄次郎は愚物に描かれる。幇間としてきちんと身を立てるのであるから、まったくの愚物ではないのだろうが。
庄次郎は作中、鳥羽伏見の戦いに出くわす。妓楼にいるのであるが、女もみんな家財道具を持って逃げ出す。庄次郎はそこに居座って、戦いで飛び交う砲弾を聞きながら酒を飲みまくる。薩長軍に見つかって、砲火のなか逃げまくる。そのときの街の情景に、関東大震災の影響があると思われる。
地震の前の妙な生暖かな様子、川を流れてくる死体などの描写にそれは現れている。
この作品のおもしろさは、明治維新の騒乱を英雄ではなく、江戸の市民の視点から描いているところだ。なにかことが起これば、我々一般市民は右往左往するしかない。
東日本大震災を経験し、北朝鮮がミサイルを撃ってきた今、そう思うのである。