池波正太郎をめざして

読書の栞

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「すべての男は消耗品である 最終巻」村上龍

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すべての男は消耗品である。 最終巻

すべての男は消耗品である。 最終巻

 

 村上龍はこの「すべての男は消耗品である」というエッセイシリーズを三四年間続けてきた。どうしてこれを終わりにしたのかという理由をあとがきで書いている。ずっとこのシリーズの原稿を受け取り続けてきた編集者が引退するから、ということだ。

なにかきっかけがないと長く続けてきたシリーズをやめるというのはやりづらいのだろう。

以前、このエッセイを取り上げて、「とうとう村上龍は不機嫌な老人」になってきた、ということを書いた。このエッセイの面白いことは、そこにいる語り手が、村上龍自身のようでいて、架空のキャラになっているところだと、個人的には思っている。

その「語り手」が急に老けて不機嫌になっていて、「元気溌剌な老人になんか絶対ならない」とか、「いくつになっても元気で登山をするような生き方は糞だ」的なことを書いていた。「若い奴は死んでいる。なにも刺激がない」とか「六〇年代から何も変わっていないんだよね」とかいっていた。

 

今回のエッセイでも基本的にはいっていることは一緒だ。

ただ、政治的なイシューがまるでなくなっていることが一番大きな差だ。身近な話と懐かしい話に終始している。

「昔若かった頃から、年上がみなで自分の話を聞きたがった」という文言が随所に出てくる。「今は若い奴らが自分の話を聞きたがるが、私が若い奴らから話を聞きたいとは思わないし、若い奴らは私に新しい話題は提供できない」と続く。

そう「語り手」はとうとう耄碌したのだ。ぼけたのである。

もしかすると、周囲の「若い奴ら」は話したがる「語り手」の話に嫌々つきあっているのかもしれない。私はけっこうお年寄りの話を聞くのが好きだが、基本普通の若い奴は年上の話を聞くのが嫌いだ。お年寄りの知見や経験が必要ないと思いたがる若い奴は実に多い。

 好奇心が強くて、向学心がある若者というのは少ない。受験勉強で良い大学に行ったかどうかとはこれは比例しない。好奇心が強いやつはどんなシチュエーションにあっても、好奇心を発揮するだろう。

人の話はたとえつまらなくても、「つまらない」と確認したくなる。そうすると、なにか発見があるかもしれないからである。それが好奇心が強い人間というものだ。だが、そんなことをしている若い奴というのは皆無だ。

そういうことに気づいていないのである。

 

「高度成長期やバブルが異常で、今が普通なのだ」という文言が結構終盤で出てくる。とうとう「語り手」も気づいたか、という思いがした。長くかかったなとも思った。

不機嫌な老人期までの「語り手」はどこかに日本全体がドライブしないことへのいらだちがあった。それが達観したのである。

人生がうまくいかないとき、「これが普通なのだ」という魔法の呪文を唱えて、自分をまずなだめる必要がある。そうしないと、人生が上手くいっていないときなので、焦って判断をミスりまくる。まずは現状を受け入れて、そこから構築しないと、反撃も出来ない。

「語り手」は耄碌したとはいえ、バカではないのである。