池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

「わたしたちが孤児だったころ」カズオ・イシグロ

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カズオ・イシグロは2017年にノーベル文学賞を受賞した作家だ。日本人としてはノーベル文学賞と聞けば、村上春樹が頭に浮かぶ。カズオ・イシグロ村上春樹の弟分を辞任していたと思う。

今回、初めて作品を読んだ。ウィキペディアで見てみると、非常に寡作な作家だ。

日の名残り」で89年にブッカー賞を取っている。ブッカー賞とは英語圏最高の文学賞だ。

 

さて、概略をあまり書いても仕方がない。作品に触れよう。

主人公は、クリストファー・バンクスという探偵だ。

昔、上海の租界で暮らしていた。租界とは、複数の国家が共同で管理した治外法権租借地だ。ややおおざっぱだが、イギリスや複数国家の植民地をイメージすればいい。

クリストファーは上海で一人の日本人と出会う。それはアキラという名前の同年代の少年だ。子どものとき、お隣さんということもあり、アキラとは濃密な友人関係を結ぶ。だが、クリストファーの父が失踪し、その後母親が失踪することで、上海から叔母の住むイギリスへ移住することになる。そのままアキラとは会えなくなる。

二人はどこか、それぞれイギリスと日本になじめないという感覚を持っている。言ってしまえば上海人なのである。クリストファーは親から「もっとイギリス人らしくしなさい」と言われることもある。

 

その後、親の遺産を相続して、クリストファーはオクスフォード大学を卒業、探偵になる。探偵になり、社交界でサラと出会う。サラははじめクリストファーのことを相手にしないが、探偵として有名になると、サラから近づくようになり、徐々に二人の距離は接近していく。

やがて、サー・セシルと結婚したサラは上海へ行くことを決意する。第二次世界大戦夜の上海で、それを食い止めようと奔走するサー・セシルを支えるために向かおうと思ったのである。それをクリストファーに告げると、クリストファーも、未解決の両親の失踪事件を解決するために上海へ向かう。

 

まず、「孤児」。

私たちが「孤児」だったころ。孤児はどうやったら孤児じゃなくなるんだろう。それがタイトルを見たときの感想だった。たとえば、結婚して子どもを持てば孤児でなくなるのか。孤独ではなくなるが、孤児であることには変わりはない。

それと「わたしたち」。「孤児」は複数であることが分かる。

「孤児」とは一般的に親をもたない人。この「親」を「国」に置き換えるとよく分かる。つまりは「わたしたちが国をもたなかったころ」という意味になる。大戦前の上海は混乱の極みにあり、国もなにも機能していない。兵士や国民に裏切り、裏切られ、パーティのようなものを相変わらず繰り返しているイギリス紳士淑女であるが、何もできずにうろたえるばかりだ。そんな連中を見てバンクスは落胆する。かつては大英帝国などと気取り、世界の覇者であったのに、人一人捜し出すのも躊躇してしまう。

植民地にいることが一番、大英帝国の凋落を肌で感じやすかったということだ。

そんな状況にいる「孤児」が上海にはたくさんいたということだ。もちろん、そこにはサラ、サー・セシル、クリストファーも含まれる。生き残るため、国もくそもない状態で戦う「孤児」たち。そんな様が描かれている。

 

事件を解決しようと奔走するクリストファー。

おそらく両親が監禁されているであろう場所を知る。そこは中国人たちが居住しているエリアであり、汚く細い路地が続く。そこを伝って無理矢理潜入しようと試みる。途中、傷ついた兵士になったアキラに遭遇する。最終的にこの兵士がアキラであったかどうかは明記されない。ただ、ここであった兵士がアキラである必要性はもはやない。日本人であっても、兵士がもつ状況の下ではもう国をもっていないからだ。彼は脱走兵であり、情報を中国側に売った人間であった。もう日本に居場所はない。彼も「孤児」である。

 

他のブログで感想を見ると、トップあたりにくるものが「つまらない」だったけれど、とんでもない!! 傑作です。英訳文で、しかも逐語訳のおそろしい日本語で、あれだけすごいと思える文章もなかなかないと思います。

なんせ、謎だらけ。

 

サラの設定すら完璧には語られず、クリストファーの、探偵の経歴もよく分からない。さっき書いたが、最後登場する兵士の素性もよく分からない。そこは想像力で補完すべきだ。両親の失踪を解決することが、第二次世界大戦を食い止める鍵になるはずなのだが、それがどうしてなのかも分からない。

ロンドンにいるときも上海でもみなそう言うのだけれど、(私の読解力がないのか)どうしてそうなるのかがよくわからない。それとも記憶をたどる話なので、「そうみなが言っていた気がする」ということなのだろうか。私はそう解釈した。

 

ただ、経歴など他の要素を隠されると、自然と国籍や文化など、人々の背後にある要素に注目する。そういう設計になっている。

 

記憶をたどる文章なので、ふわふわとしていてとらえどころがなく、正直はじめは苦痛だった。けれども、最後上海に来てからはピントがあった文章になる。両親の監禁場所に行くときの描写は、本当にその場所にいるように錯覚するほどきちんと書かれている。最後まで行って、「なるほどね」とならなかったら、酷評してやると思っていたが、やっぱすげえや。

 

「孤児」であったクリストファーはやがて、「孤児」ではなくなる。国を取り戻す。いや正確に書けば、国を背負わされる、という方が正確か。中国人を使うシーンがあるのだが、「協力」というより、横柄な態度で「使う」という方が正しい表現だ。それはきっと植民地支配をしていたイギリス人のようであった。

最後、クリストファーはこう語る。

「(探偵の仕事を)やろうとした。まさにそのとおりだよ。結局のところ何もならなかった」(カッコ部分は私が足しました)

探偵が出てきたとしても、殺人などの事件は防ぐことができない。なぜなら、起こった後だから。それには寂寥感が漂う。

人生はみなそうだ。

社会から隠遁しようとしても切り離すことはできず、巻き込まれ、ぐちゃぐちゃにもまれ、そうやってみな生きているのだ。優秀な探偵だからといって、その運命からは逃れられず、ただ事実を知るのみ。

そういう人生の哀歌がそこにはあるのだ。

ノーベル文学賞の受賞理由はこうだ。

壮大な感情の力を持った小説を通し、世界と結びついているという、我々の幻想的感覚に隠された深淵を暴いた

ふうむ。よく分かる気がする。

 うむ、気持ちの良いハードボイルド。ハードボイルドに勝者はいらないのである。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

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