池波正太郎をめざして

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

又吉直樹「劇場」を読む。

 

又吉直樹芥川賞受賞後、第一作目「劇場」を読み終えた。

ここから、感想を書くが「劇場」を読んでから、この話を読み進めたほうがよい。

この作品を端的に表現すれば、「ベタな内容な物語を作者の文章力で装飾した」作品だ。ただ世の中の小説を面白いものと面白くないものに大雑把に分ければ、確実に面白い方に入る。しかもかなり高いレベルで。何よりもこの小説のことを考えるのは楽しい。

 

主人公永田、その恋人沙希の出会いとその関係性が純愛であることから、最終的にどうなるかは察しがつく。大ブームとなった「逃げるは恥だが役に立つ」の逆だろう。逃げ恥の新垣結衣はかわいいけれども、沙希はあまり美人に感じないのは私だけだろうか。下北沢にはたくさんいそうだけど。

読者の目線からすれば二人が最終的に別れるという展開は容易に想像できる。沙希は初めから無理をしすぎている。それにあまりにも将来のことを話さない。作品上は別れる理由は明示されていない。理由はあったはずだが、最後の最後で打ち消されてしまう。本人たちが気づいていない形で理由は進行している。

強いて明示されている理由を言えば、青山という女性の存在が理由である。おそらく二十代半ばであろう女性が、相手のことが嫌いだからといって、作品中のような行動をとるのかどうか。そのあたりに少々違和感をいだいた。むかついたらもう関わらないのではないだろうか。しかも永田からいったんは離れていっている。わざわざ青山の方から関係を修復することは、通常はないだろう。

本来は沙希に対して嫉妬の理由を用意すると、すっと読めたのかもしれない。沙希は気づいていないが、実は青山は沙希が嫌いならば、このような行動も合点がいく。ただ、文章としてはあまり美しくないものになる。青山はその場合、目的を達するために複雑な行動をとることになり、それが物語にとってはノイズになるからだ。

ただ、昔に比べて男も女も通常の年齢より幼い感じがするので、あり得ない話しではないのかもしれない。沙希を徹頭徹尾、内面が美しい女性として描いているので、青山のえげつなさが際立つ。こういう女子(とあえて書く。普通は若い女性限定の行動だ)は自分が絶対の正義をもっていると勘違いしている分、たちが悪い。本当に悪い。

 

古典作品のような骨太さを持つ物語であるが、古典的な古い人間観を引きずっているようにも感じる。背後にシェイクスピアの顔が見える。青山は狂言回しなのである。

また物語が先に存在し、人物を物語の都合のよいように配置したのだろうと勘繰ってしまう。それくらい物語にとって人物たちの存在が、都合がよすぎるのである。

沙希の考え方も行動も古い。受け身すぎるのである。もちろん、そこは又吉も意識していて、あるシーンで反論する。だが、沙希みたいな若い女性を今探すのは大変だろう。

さて、最終的に破局は「自分が悪い」と二人とも思っている。ならば、別れる必要がない、と感じるのは私だけだろうか。どうして自分が悪いと思っているのかは、もしかするとこれから読むかもしれない読者の為に書かない。

 

 

中学時代からの親友で、劇団「おろか」をともに主催する野原が位置的にもう少し活躍してもよい気がする。もしかすると、野原に沙希を強奪されるのではないかと思っていたが、肩透かしを食った。

この物語は確か大幅に書き換えられているはずである。野原は前の作品ではもう少し別の存在だったのかもしれない。あえて書く必要がない気もした。

 

前作に比べても今回の作品は文章が読みやすくなっていると感じる。

関西の小説家の癖なのだろうか。読後感をよくするために最後に綺麗なシーンを入れる。しかし、冷静になって読んでみると、とんでもないことに気づく。作品が最後に全部打ち消されてしまうのである。二人の関係は、いったいどのようなものなのか。なんとなく、読み手の性格が反映されてしまう気がする。ちなみに、私は全部幻想だと取った。上段で、人物の配置が物語の都合に合わせすぎている、と書いたが、二人の関係もある意味お互いに都合がよいから存在していた。純愛でもないのだろうと思った。

新宿から神宮の辺りまではよく散歩することがあったが、場所の雰囲気がよくでていた。場所をとても大切にしている小説である。あの辺りの店って、誰に商品を売りたいのかわからない。すごく狭い商圏である。その空気がよくでていた。

 

読み終えて、数時間経ってから書いているが、もう少し悲劇性があってもよいかもしれないと思った。もしくは、二人で乗り越えちゃった方が、今の読者が望む形にはなるだろう。ただ、太宰治好きとしてはあのような展開になるのは必然なのかもしれない。

結局は二人の悲劇性はまるで解決されないという、ある意味心中するよりも不幸な小説である。これから読む人は、覚悟をする必要がある。文章を味わうという意味では今現役の作家ではトップクラスの味わい深さがある気がする。

 

劇場

劇場

 

 

 

 

にほんブログ村 本ブログ 読書日記へブログランキング・にほんブログ村へ

逆説の日本史22

 

井沢元彦が長年執筆を続けてきた、「逆説の日本史」が折り返し地点? にたどり着いた。

簡単にいえば、近世が終わり、いよいよ近代に突入する。その手前まで終わったということだ。具体的には西郷隆盛が反乱を起こす、「西南戦争」まで終了した。

終了記念ではないが、補遺(書物などで、漏れ落ちた事柄をあとから補うこと。また、その補ったもの)が収録されている。その部分について今回は触れていきたい。

 

「漏れ落ちている」部分とは、

このシリーズの目的とは「通史を書くこと」である。それも、いわゆる歴史学会が作り上げた日本史の欠如した部分を補完しながら書いている。その欠如した部分は三つあると井沢は言う。。

1,資料偏重主義

2,宗教的な知識の欠如、もしくは無視。

3,権威主義

の三つである。この部分を補完しながら日本史の通史を書こうというのが目的である。古代(平安時代まで)は三つの欠如が十分に説明されている。が、鎌倉時代からはそれがちょっと鳴りを潜める。どうしてなのだろうか、と思っていたが、その部分についての説明も行われていた。

井沢は、日本には二つの文化の相克があると考えている。それは「縄文文化」と「弥生文化」の二つである。このシリーズの最大の特徴である、「ケガレ」という文化は「弥生文化」の発想であるとしている。主に縄文文化=東日本中心、弥生文化=西日本中心に展開している。だから西日本には部落差別が多いのだそうだ。

この指摘には少し無理がある。

東日本の文化である江戸幕府にも「ケガレ」の発想がある。江戸の街でも、市外に出なければ禽獣の類いは食べられなかった。隅田川の周辺、特に市外側を行くとももんじ(猪)料理屋さんが並んでいるのもその名残だろう。徳川政権自体が東日本(静岡)出身の政権であり、本当は井沢の言うところの弥生文化が入る余地はない。

政権が長期化すると貴族化する、貴族化すると「ケガレ」的な発想が顕在化するというのが正確なのだろう。

これは日本だけの傾向ではなく、様々な国は差別を旨く利用して統治している例が多い。カースト制とかね。

 

このように突っ込みどころの多いシリーズではある。妙に信長を持ち上げるところ(井沢は愛知出身)や、やや妄想なんじゃないかという見解もある。が、作家の書く日本論だと思えば楽しめる。

よく著書のなかで憲法の問題などを口にする。

ということは、井沢が書きたいのは近代なのだろう。ここからがやっと本論である。

個人的には、書き終える前に死んでしまうのではないかと思っていた。雑誌で連載しているのだが、一回ずつの分量が少なく、しかも必ず冒頭で前回の展開を振り返っていた。このペースで終わるのかと思っていたが、なんとかなりそうである。