池波正太郎をめざして

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読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ。

 

 本書は横浜栄光学園での講義を元にして書かれた本である。

加藤陽子という人と人に対する批判

 加藤陽子ご本人が第一回の講義で「文学部の先生」と紹介されていたので、文学部なのだろう。戦間期第一次世界大戦第二次世界大戦の間の時期。結構面白い時代)の専門だという。

本書に対する批判

 歴史的な事実は動かしがたい。その解釈の部分で意見が割れてくる。どのように解釈しているかを、私なりに解釈した内容は別途記す。

 主に、加藤陽子と本書を批判しているのは、ネット上などのいわゆる「ネット右翼」的な傾向が強い人々である。人間性までも含めて批判しているのは少々たちが悪い。

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 こういうことを書くと、「左」と書かれてしまう。今、純粋に「左」なんて人はきわめて少なくなっていて、特に四五歳以下だと、ほとんどが保守層のなかの左よりか、右よりか、という範囲に存在している。私の場合、三浦氏よりは左にいるのだろう。

 何が書きたかったかというと、要するに右だの左だのという論議自体がほとんど無効だということ、そして加藤さんも読み手の立ち位置によって、右に見えたり、左に見えたりするのだということである。

 もしも団塊の世代くらいの年齢で、本当に左翼的な思想を持っていれば、戦争について語るだけで「右」に見えるだろう。もっとも、共産党ですら革命の意義が曖昧になった昨今、左の思想がどんな形であるのか、よくわからなくなっているが。

 逆に加藤陽子と本書について、枝葉末節な部分も含めて揚げ足を取っている人間に興味が行ってしまう。

 このような批判をする人間を見ていると、ほほえましくなることがある。なんとなく、お気に入りのおもちゃやアイドルをけなされてヒステリックに反論しているように見えるからだ。

 東大の学生に言われるのだそうだが、加藤陽子松岡洋右に甘いのだそうだ。「左」で松岡洋右に甘い人っているんだろうか。あまり調べてないからわからないが、印象としては居ない気がする。

 一般的なことを書けば、七〇年代に学生運動がぐっと下火になった後、運動を最後に担当していた連中というのは、みななぜかお金が大好きになる。その辺りを皮肉ったのが桑田佳祐の「真夜中のダンディー」だ。だから、八〇年代くらいからは左自体も激減したのである。

 

本書の特徴と言いたいこと

結論は言っていない

 実は加藤陽子は、「時代の空気」について、どのようなものだったかを栄光学園の中高生に紹介するという作業をしているのであって、具体的に、端的に、どこで日本が判断や決断を誤ったかを示してはいない。それは読者の方(要するに中高生)に判断してほしいというスタンスを取っている。様々な新しい研究を、研究者と共に紹介していく。

 たとえば、植民地経営のプロをそろえたリットン調査団というのが、満州国についての正当性を中国側の要請を受けて調べた。その結果如何によって、満州国の支配権限がどちらにあるかが決まる。

 本書では、そのレポートについて、両成敗という形を取っているとした。華北地方の経済的な権益は日本政府に、そして満州国の正当性は認めず、それは蒋介石率いる国民政府側にあるとした。要するに、(ここからが私の解釈で本書ではそこまではっきり書いていない)連盟に加盟している国々は、一般的に、「最終的にほしいのは中国北部の経済的な権益」なのだから、そこを認めて上げることで日本政府のメンツを立て、「領土の帰属に関しては中国側にある」ということで中国のメンツを立てるという内容になっているとした。

 結局は欧米が当時の日本の状態について無知であったのだろう。軍事的な主義が社会のなかでも突出しすぎていて、領土が減るということが死活問題であるように見えるということを読み違えていた。上記した最終的な国益がおかしな形になっていたのだろう。

  青い字の部分が実際にははっきりと書かれていない。そこをどう解釈するかは、読者次第である。ちなみに、盛大にミスリードしているネット右翼の人がいた。リンクを張るかは迷ってしまう。別に喧嘩したいわけではない。(やめとこ)

どの時点で間違ったか

 これも色々な意見がある。

 一つに限定するのは難しい。

 読んでいて、ミスをした要因の大きなものに、「中国軍への評価」があるように思う。つまり、あの当時の中国軍は強かったのである。この点を理解していなかったように思う。

 この本の一番良いと思うところは、その時代の空気を伝えているところだ。

 日本人は中国との戦争を「弱い者いじめ」だと考えた。だから米国との開戦という話を聞いてほっとしたらしい。一般の人の感覚だ。これを聞いて意見は色々あるだろう。ただ、わかるのは中国を弱いとみていたということだ。

 この当時の中国の戦略を説明するのに、加藤さんはふたりの人物を紹介する。一人は、胡適、もう一人は汪兆銘である。

 二人の覚悟がすさまじい。胡適は中国の未来を切り開くために、「外国の軍隊を利用する」ことを考える。その悲痛な覚悟が「日本切腹 中国介錯」という言葉に込められる。

 中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。第一に、中国沿岸の港湾や兆候の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が破綻し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と著九苦節に衝突しなければいけない。我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

(「世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略)

  引用の引用で申し訳ないが、本書にあった胡適の作戦なのだそうだ。これを蒋介石汪兆銘の前でぶつ。じゃっかん、他国に頼りすぎであり、情勢が許さなければ、英米もうまい具合に作戦通りに動かない可能性がある。その辺りを本気で考えているところが、なんとも若くて良い。他人に絶望していない(わしゃ老人かい)。

 汪兆銘は開戦後に南京に日本の傀儡政権を作った人物。つまり、胡適が米ソを選んだとすれば、汪兆銘は日本を選んだ人物だ。胡適の「日本切腹 中国介錯論」に対して、「そんなことをしていれば、中国はソ連化する」と論破する。その後、中国はソ連化するのである。

 そのような優秀な人物が現れ、しかも援蒋ルートから中国に物資の補給のある状態になるということをどれも察知できなかった。そこには中国に対する侮りがあるからである。

 日本らしいといえば日本らしい。

 スポーツにしたって、相手が強いときには大金星をあげたりするのであるが、自分たちが余裕で勝てると思ったときには案外負ける。なんとなく、日本人って極端なんですよね。

 日本人は皆が侮っているときが一番怖い。

 そんなことを考えた。

 自分の思想にかかわらず、一度読んでみると良いと思う。書いたが、時代の空気はよく出ていると感じた。

 

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

 

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「現代落語論」立川談志

 

 先年、といってももう2011年だからずいぶんと前になるが、なくなった立川談志が書いた本である。帯には、「これが落語家がはじめて書いた本である」とぶってあった。そんなものか、まあ噺家なのだから当たり前か、と文言を見て思ったが、はたして本当かどうか。

 

 談志の落語論といえば、「落語とは業の肯定である」という有名な文言がある。それは続編の現代落語論に書かれた文句である。その節は、落語協会と真打ち昇進に絡んで揉め、協会脱退、周囲はみんな敵という状態だった。起死回生の一撃と言わんばかりに、続編を書いた。

 この本はその前の本で、落語家になるまでの経緯が書かれている。

 「三つ子の魂百まで」と言う。

 四十になって思うが、人とはそれほど成長も変化もしないものである。すごい人間とは昔からすごいのであり、そうでもない人間はそうでもないのである。

 ただし、すごくないのに、周囲の環境が変化して、すごいことになっちゃったという人間はいる。昔は蔑まれるような奴らだったコンピュータ好きが、いつのまにかIT長者になったりする。それは本人がすごいのではなく、環境の変化がすごいのである。

 やっかみか。

 談志はどうかと言えば、本人の言を信じれば、昔から談志なのである。

 数学と国語・漢文の授業は聞くけれども、その他はハナからバカにして聞いていない。銅線とか真鍮とか拾っては売っぱらってそれを元手に寄席がよいをしていた。おそらく朝鮮戦争の時期で、金属が国内で不足していた。特需である。だから、こういう芸当ができるのだろう。

 教師に対しては裏切り者という意識が強い。この頃の教師に対しては、子どもはこういう意識を持つことが多いらしい。第二次世界大戦が終わり、教師たちが教育を次々と民主教育に鞍替えしていった。その無責任ぷりに、こいつらは嘘つきだと子供心に思ったそうだ。以前、本屋で平積みになっていた大江健三郎の本に、「その日から私はあまりの世界の転変に高熱を発し、高熱を発したまま森へ行った」というような内容のことが書いてあったが、それは誇張だと思う。

 そのおかげで松岡少年(談志の本名は松岡克由)は寄席という学校以外の世界を獲得する。そしてやがて柳家小さんに弟子入りする。ちゃらんぽらんにやっていても、高校へは行けたのだから、バカではない。それでも中退してしまう。

 

 前回司馬遼太郎の新書を引いて、「いまも昭和三十年代もサラリーマンはさして変わらない」というようなことを書いた。が、もしも昭和時代と平成時代の少年を比べたとすれば、「外の世界をもっているか」という点は違うと思う。

 今は社会全体が学校に若者を閉じ込めようとばかりしている。管理社会が問題になったのは八〇年代のことだが、今の方が管理というより、監視の目が強くなっているような気がする。

 世の中色々な人間がいて、もちろん学校や学校の延長のスポーツで成功する人間も居るが、学校の外には様々な世界があって、もしかするとそっちの方が君は向いているかもしれないよ、ということを若者が学びにくい状況になっている。

 卵子に群がる精子のように、猫もしゃくしも優良企業に行くのが成功だという風潮は窮屈である。成功たって、年間ウン億円稼げるわけでもなし。

 そんなことを考えながら読んだ。

 

 本書ではもちろん落語について語っているのだが、その豊かさに感心してしまう。ちょっとでも落語に興味がある人は是非にお読みください。

 おっかない談志の人間的な魅力が(男子自身はこういう風に言われるのを嫌いそうだが)よくわかる一冊である。

 

現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)

 

 

 

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