池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

「高野聖」泉鏡花

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高野聖とは高野山へと寄付を募り、各地をまわる僧侶のことである。いわずもがなであるが、高野山とは金剛峯寺という、真言宗の総本山がある。

 

とある高野聖から若い頃にあった不思議な体験談を聞く。

飛騨から信州に向かう道なり、ある茶屋のこと。近くで悪疫が流行っているのに、茶屋の女が生水を出した。それを呑もうとして高野聖は止める。

その様子を見ていて、富山の薬売りが高野聖を笑った。意気地のない、ということだ。病気になったら金仙丹という薬を出すから、とからかうのだった。その先、道に迷いそうになって、近くの百姓に尋ねる。

「旧道の方は行かない方がよい。大水があって近くの村が壊滅した。安全な方の道を行きながらお経でも唱えてくれ」というようなことを言われる。だが、先の薬売りが旧道の方へ進んでいったようだ。捨て置くのもなんだからと、悪路の方へ入っていく。苦手な長虫(蛇)にあったり、木々の上から降ってきた山蛭などに悩まされながら、ぽつんと建つ孤家に行き着く。そこで休憩しようとするのだが、家には少年がぽつりといる。少年は知恵が足らないのか、小首をかしげて聖を見ている。

そこへこの家の婦人が帰ってくる。

婦人は蠱惑的であり、修行中の聖は悩んでいく。

 

全部を書くのはしんどいので、あらすじはここまで。

途中「都の話を決して自分にするな」ということを婦人は言う。通常、それが伏線になっていると読者は思う。最終的に都の話をしてしまい、それがきっかけになって、何かが破綻するのであろう、と。ところが、この伏線は回収されずに終る。

おそらくこれは伏線の回収忘れではないかと思う。それを校正の時点で残そうと教科自身が思ったのではないか。意図してこれを残したのだろう。

この下りがあることで、作品はますます不思議になり、読者はどうしてなのか何度も考えてしまうのである。その効果を狙ったのだろう。

 

この孤家には何かと世話をしてくれる親仁がいて、この親仁から最後にこの婦人と少年の顛末を聞く。これがなんとも嘘くさいのである。

婦人は若い頃医者の家の娘であった。不思議なところがあって、この娘が手術の時に支えたりすると、痛い手術も不思議と耐えられるようになったりする。

少年は足にできものが出来て父親とやってきた。

できものは手術しないと完治しないのであるが、いつまでも医者は手術しない。そのうち、父親は農家の仕事をしなければならない季節になり、医者の元を去る。いつまでもこうしていても仕方ないと医者は手術をする決意をする。だが、手術は失敗して、大量出血し、少年は歩けなくなってしまう。

それを不憫に思って、娘は家まで少年を送る。親仁はそのときについてきた。

娘は少年をかわいそうに思い、一日また一日と少年の元にいるうちに、大水に遭う。そして少年と娘がいた家以外は流されてしまう。そのうち、旅人が宿を求めてやってくる。蠱惑的な婦人の魅力に負けて関係を持った男を動物に帰るのである。

そう親仁は説明する。

だが、矛盾するのである。大量出血で歩けなくなるほどの傷があるはずなのに、半裸の少年(丈の合わないちゃんちゃんこを着て、へそをクリクリいじっている)の足にそんな傷があるという描写はない。年齢は二十四というのだが、それを聖が見て、「少年」とは描写しないだろう。

大水が十三年前にあった。時間が経ったのであるが、その傷跡くらいあるだろう。現在の東日本震災の津波でもその傷跡はまだ残る。なのに、その痕跡の描写がない。

 

なぜ親仁は嘘をつくのか。

それは後ろめたいからだ。

それに、婦人に近づく男がいることが許せないのだ。

だから、脅すために婦人に妖力があると思わせる。

 

婦人はどうして都の話を聞きたくないのか。

すくなくとも親仁は都の出身なのではないか。

聖でも誰でもその話を聞いてしまうと、うっかり親仁にそれをしゃべってしまう。すると親仁は里心が出てきて、婦人の元を去ってしまう。

だから、「自分に都の話をしてくれるな」と言うのだろう。

 

二人の正体はいったいなんなのか。

考えると深い話である。

 

高野聖・眉かくしの霊 (岩波文庫)

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