池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

「空也」

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空也という人について、あなたは説明できるだろうか。

私はこの本を読むまでは自信がなかった。

市の聖と呼ばれ、六波羅蜜寺にある口から梵字を吐いている像が有名だが、それくらいしか知識はない。

実は傍流ではあるが皇族の出であるという説がある。

ときは平安時代中期。ちょうど平将門が新皇と称して、坂東平野で暴れまくった時期と重なる。藤原純友が瀬戸内海で氾濫を起こした時期だ。ちなみに二人は結託していたとも言われる。

皇族であるが母親の血筋が悪く、傍流であったために、皇族として認知もされなかった。失意のために母親は井戸に飛び込んで自殺する。それがトリガーを引いて、貴族の世界から飛び出す。

飛び出すきっかけになったのは、猪熊と呼ばれる聖たちの活動を見たことだ。人々を救うために、川が決壊すれば土嚢を積んで直し、うち捨てられた人々の供養をする。そんな世界に飛び込みたくなるのである。

 日本の仏教というのは変わっていて、官製の寺で得度を受ける。当たり前のようでいて、宗教がここまで国家に管理されているというのは珍しいだろう。空也はその総本山である延暦寺に入るのではなく、様々な寺で修行を積む。

修行中に様々な状況にある大衆と出会い、彼らを救う道へと進む。

 

将門と板東で出会った後、京都で浄土教の布教をする。

恥ずかしい話であるが、浄土教はもともと中国にあったものらしい。日本発の民間信仰が元だと思っていた。

市で金鼓を打ち鳴らしながら、「南無阿弥陀仏」と唱えるのであるが、これがはじめ、民衆の耳には死を招く言葉に聞こえた。貧しきもの、病めるもの、罪を犯したもの、すべてのものを救うため、空也は積極的に「捨てる」。身を投げ出すように仏教の戒律を破るようなことでもする。長年かかって作った、十二面観音像に貼ってあった金箔もそぎ落としてあげようとする。皆のために井戸を作って、または井戸を再生させて、人々に与える。地震があっても、洪水があっても、諦めず、皆で力を併せて生きていくことを教えるのである。

徐々に信じる人々が増えて、道場を構える。後にその道場は「西光寺」と呼ばれるようになる。

 

人々の生活の足下にはこのような宗教があって、支えている。この感覚があれば、精神的に安定することができる。それにとかく人々というのは力を合わせられない。エゴが邪魔をするのである。

 

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 個人の問題に帰せずに、社会全体の問題として、苦しんでいる人を救っていく。今大事なのはそういうことなのかもしれない。が、その根底には空也のやっているような活動や感覚が根底に必要なのではないか。