池波正太郎をめざして

読書の栞

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「現代落語論」立川談志

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 先年、といってももう2011年だからずいぶんと前になるが、なくなった立川談志が書いた本である。帯には、「これが落語家がはじめて書いた本である」とぶってあった。そんなものか、まあ噺家なのだから当たり前か、と文言を見て思ったが、はたして本当かどうか。

 

 談志の落語論といえば、「落語とは業の肯定である」という有名な文言がある。それは続編の現代落語論に書かれた文句である。その節は、落語協会と真打ち昇進に絡んで揉め、協会脱退、周囲はみんな敵という状態だった。起死回生の一撃と言わんばかりに、続編を書いた。

 この本はその前の本で、落語家になるまでの経緯が書かれている。

 「三つ子の魂百まで」と言う。

 四十になって思うが、人とはそれほど成長も変化もしないものである。すごい人間とは昔からすごいのであり、そうでもない人間はそうでもないのである。

 ただし、すごくないのに、周囲の環境が変化して、すごいことになっちゃったという人間はいる。昔は蔑まれるような奴らだったコンピュータ好きが、いつのまにかIT長者になったりする。それは本人がすごいのではなく、環境の変化がすごいのである。

 やっかみか。

 談志はどうかと言えば、本人の言を信じれば、昔から談志なのである。

 数学と国語・漢文の授業は聞くけれども、その他はハナからバカにして聞いていない。銅線とか真鍮とか拾っては売っぱらってそれを元手に寄席がよいをしていた。おそらく朝鮮戦争の時期で、金属が国内で不足していた。特需である。だから、こういう芸当ができるのだろう。

 教師に対しては裏切り者という意識が強い。この頃の教師に対しては、子どもはこういう意識を持つことが多いらしい。第二次世界大戦が終わり、教師たちが教育を次々と民主教育に鞍替えしていった。その無責任ぷりに、こいつらは嘘つきだと子供心に思ったそうだ。以前、本屋で平積みになっていた大江健三郎の本に、「その日から私はあまりの世界の転変に高熱を発し、高熱を発したまま森へ行った」というような内容のことが書いてあったが、それは誇張だと思う。

 そのおかげで松岡少年(談志の本名は松岡克由)は寄席という学校以外の世界を獲得する。そしてやがて柳家小さんに弟子入りする。ちゃらんぽらんにやっていても、高校へは行けたのだから、バカではない。それでも中退してしまう。

 

 前回司馬遼太郎の新書を引いて、「いまも昭和三十年代もサラリーマンはさして変わらない」というようなことを書いた。が、もしも昭和時代と平成時代の少年を比べたとすれば、「外の世界をもっているか」という点は違うと思う。

 今は社会全体が学校に若者を閉じ込めようとばかりしている。管理社会が問題になったのは八〇年代のことだが、今の方が管理というより、監視の目が強くなっているような気がする。

 世の中色々な人間がいて、もちろん学校や学校の延長のスポーツで成功する人間も居るが、学校の外には様々な世界があって、もしかするとそっちの方が君は向いているかもしれないよ、ということを若者が学びにくい状況になっている。

 卵子に群がる精子のように、猫もしゃくしも優良企業に行くのが成功だという風潮は窮屈である。成功たって、年間ウン億円稼げるわけでもなし。

 そんなことを考えながら読んだ。

 

 本書ではもちろん落語について語っているのだが、その豊かさに感心してしまう。ちょっとでも落語に興味がある人は是非にお読みください。

 おっかない談志の人間的な魅力が(男子自身はこういう風に言われるのを嫌いそうだが)よくわかる一冊である。

 

現代落語論 (三一新書 507)

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