池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

司馬遼太郎のおすすめ作品。秋の夜長に読むなら、この読み方が良いです。【戦国編】

 

今週のお題「読書の秋」

 司馬遼太郎、通史セット。

 司馬遼太郎の作品は本人曰く「日本人がどうしてこんな戦争(第二次大戦)をしてしまったのか。それを考えて、あの当時の自分に書いて送った手紙だ」という趣旨のことを言っている。

本来は死ぬ前に「ノモンハン事件」という大戦中の小説を書くはずだった。それは叶わなかった。対人トラブルが原因だったと思う。

だから、司馬文学は通史で読むと理解が深まる。私が呼んだ範囲であるが、いくつか紹介しよう。「いや、こっちじゃない」ろいう作品もあるだろう。そんな紹介があれば呼んだみたい。

新装版 義経 (上) (文春文庫)

新装版 義経 (上) (文春文庫)

 
新装版 義経 (下) (文春文庫)

新装版 義経 (下) (文春文庫)

 

司馬遼太郎いわく、鎌倉時代に日本の土地制度などが固まっていった、らしい。

その鎌倉時代がどのように成立していったかは、源平の合戦周辺のことを見ないとわからない。

よく司馬遼太郎の作品で登場する一文がある。

それは「鎌倉武士のように、名乗りあって一騎打ちをするような美風はもはやなく」というような記述だ。武士の生き方としても規範はこの時代にある。

そういった意味で、一度読んで見ても良いだろう。

個人的に、源義経は人生初あたりに読んだ作品である。その人物像が根底から覆されてしまう、衝撃の人物像だった記憶がある。

 

新装版 妖怪(上) (講談社文庫)

新装版 妖怪(上) (講談社文庫)

 
新装版 妖怪(下) (講談社文庫)

新装版 妖怪(下) (講談社文庫)

 

 

 これは応仁の乱前夜のお話。

日野富子などの人物が登場する。

将軍家の大奥での権力争いを描く。

この辺りで多くの社会制度が変わっていくのだが、その最たるものとして、司馬遼太郎貨幣経済を意識していた。貨幣経済が浸透して人間がどう変わるのかがよくわかる。それも、幻術を通して、というのが面白い。

最後にシーンが圧巻。

 

 

 

司馬遼太郎応仁の乱の原因を、相続制度の不備に求める。よくよく考えればその通りで、将軍個人に決定権があるから、候補が幾人も存在するときにもめるのである。

徳川幕府は逆に、厳格な相続ルールを作った。この相続の制度の欠陥は鎌倉時代もそうであった。

この乱を契機に戦闘の仕方に大きな変化が現れた。足軽による集団戦法である。集団戦法を巧みに取り入れた一人が北条早雲である。

相続制度の不備は地方の武士にも波及してゆく。そこここで小さな応仁の乱がおこる。

時代の変化や社会の混乱は、チャンスでもある。それをどう見るのか、という視点で読んでも面白い。

 

国盗り物語1~4巻完結セット

国盗り物語1~4巻完結セット

 

 この話は二人の主人公で構成される。

斎藤道三織田信長である。

斎藤道三は早雲など、前期戦国時代を象徴する存在として描かれる。下克上を成し遂げた人物である。

一方の信長は安土桃山時代、江戸時代に繋がる感覚を持った人物である。

道三は、出自がよくわからない。その身分から、油屋の主人となり、やがては美濃国を統べるようになる。楽市楽座などの制度を始め、商業を奨励する。

信長はとても合理的な人物。かれの育った尾張自体が商業が盛んな地域であり、いやいよ浸透してきた貨幣経済的な感覚をもっていた。しかし、兵は弱兵であり、となりの三河の兵を頼らざるを得なかった。

そして道三を師としながら、天下統一を目指してゆく。

商業的な合理的な感覚こそが、このころの最新の感覚であり、天下取りに必須であったと司馬遼太郎が考えていたことがよくわかる作品。

 

新装版 尻啖え孫市(上) (講談社文庫)

新装版 尻啖え孫市(上) (講談社文庫)

 

 前期戦国時代は、局地的な小規模戦闘に明け暮れた時代。この雑賀孫一はそんな特徴を多分にもった武将。小規模戦闘では、向かう所敵なし。

信長が台頭し、武田信玄らが信長包囲網を形成していた時期。孫一は鉄砲集団雑賀衆のまとめ役。傭兵である。

頼まれて、一向宗の本拠地、石山本願寺を守ることになる。

孫一のキャラクターも面白い。女たらしといあキャラは和歌山の人に不評だったとか。

 

 

 

覇王の家(上下) 合本版

覇王の家(上下) 合本版

 

 いわずとしれた、三英傑の二人だ

太閤記に関しては、あまり目新しいことはない。純粋に英雄譚として読めるだろろう。

「家康=勤勉」というイメージはもしかすると「覇王の家」から始まったのか。

そういった意味でも、読むと良い。

この人物が関ヶ原から変わる。

 

 

 

 

関ヶ原と城塞はセットで扱うべき作品かもしれない。

関ヶ原は言うまでもなく、東軍率いる徳川家康軍と、西軍率いる石田三成が激突した戦いだ。

明治時代になって、関ヶ原の布陣を見たドイツの軍人は、この戦いを西軍の勝ちと見た。陣形、地の利などを考えるとそういうことになる。主力軍は信濃の上田で足留めをくっていたし。

それを逆転して、東軍が勝つ。そこに、日本人の本質を見るのである。要するに、日本人に大義などなく、あるのは保身だけなのだろう。

最近、ゲームの影響で石田三成が人気だが、確かに負けた西軍の方が清々しく、肩入れしたい気分もわかる。が、信長好きの人間が、実際に信長様の人間が現れれば必死に杭を打つように、石田好きの人間は、いざとなると尻尾を巻いて逃げるのだろう。人間そんなものだ。

 

関ヶ原の後の大坂の陣を描いたのが「城塞」だ。

世の中を動かすのは理屈でも道理でもなく「感情」だ。それをまざまざと見せつけられるのがこの小説だ。

このときの大阪城の実質の主は淀君、大蔵卿の局を筆頭にした女性だった。家康はその女たちを政治的な交渉力で、ときには脅し、宥め、翻弄してゆく。作中では忠臣片桐且元まで、去らせてしまうのだが、それは家康による扇動だった。

宮城谷昌光三国志の一巻では、徹底して宦官の害を書いている。宦官は言わずともお分かりだと思うが去勢された男性だ。それ故に後宮にも出入りでき、後宮の管理をしていた。

私的な空間で皇帝と会うこともあったので、歓心を得るのも容易かった。(ここからは私見)それに言葉は悪いが、道徳や倫理の埒外にいるものたち故に、私財を積まないと身の危険があるかもしれないと、私服を肥やす結果になったのかもしれない。

大阪城の当時の女性たちも、政治的には埒外にいるために、起こった混乱なのかもしれない。

 

最後に以前、仲間由紀恵か主演した大河ドラマの原作、「功名が辻」を紹介したい。

この作品はいよいよ始まる平和な封建制度とはどんなものなのかを教えてくれる。

関ヶ原の合戦のときに誰よりも早く手を挙げ、家康に味方するという功績くらいしか、大きな功績がない山内一豊とその妻、賢妻千代。

最終的に土佐の領主になるが、土地に元々住んでいた者たちから、恨みを買ってしまう。また、差別主義的な政策によって、彼らは郷士と呼ばれる様になったしまう。

この、郷士の出自を持つのが坂本龍馬である。

 

そうこの話が、名作「竜馬がゆく」につながる。同じように、江戸時代中に幕府や体制に不満を持った連中が蜂起したのが、明治維新だ。ということは、その前時代である、今回紹介した作品群を読まないと、維新の志士の心情は本当に理解できないのかもしれない。

 

司馬遼太郎の作品は、日本人のことについて、考えたくなる作品が多い。夜長にそんなことを考えながら読むのも一興だろう。

 

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吉川英治「松のや露八」

 

 吉川英治の超長編はタイトルを見ると、だいたい時代設定や話の筋が分かる物が多い。ところが、「松のや露八」は一般的にはどの時代の話か、どんな展開なのかが分からない。

露八は明治以降に幇間になった後の名で、元々は土肥庄次郎といって、代々一橋家の家臣だった。ときは幕末の動乱の始まりの時期、会津藩松平容保が率いる軍が、京都守護として上洛する辺りの頃から始まる。

お情けで剣術の免許皆伝を得て、家に帰るとき、同朋に飲みに誘われたときから運命が流転する。その金を出したのは、のちに第一銀行を設立する渋沢栄一であった。ひょんなことから三姉妹と出会う。その真ん中のお蔦に翻弄され続ける。

お蔦は淫乱な女で、庄次郎とつきあっては他の男に浮気する。しかも、酒代の四〇両をもって他の男の元に走った。その四〇両を工面するために闘鶏の掛け金をせしめる。これが遠因になって、父親切腹して果てる。

流れ流れて、幕末の動乱に巻き込まれてゆく。

一方で弟八十三郎は勤王の思想にかぶれていた。流転を続ける兄庄次郎は八十三郎が幕吏によって捉えられるところも見てしまう。

あまり書いてしまうと面白くないので途中を端折るが、最終的に八十三郎は薩長の兵士として、兄庄次郎は彰義隊の一員として戦う。

 

この辺りが史実と違うと目くじらを立てる連中もいるのかな。

本当は八十三郎は彰義隊の一員として戦ったらしい。

squatyama.blog.so-net.ne.jp

(引用させていただきました)

森まゆみによると、「子母澤寛ならばこうは書くまい」と述べたらしい。

森まゆみは東京の出身。故立川談志家元によると、「本物の東京生まれは彰義隊びいき」なのだそうだ。だから、森まゆみがそう書くのはいたしかたない。感情的には非常によくわかる。

だが、このブログの書き手がどうして「史実をねじまげた」とまで、小説に対して強い言葉で書くのかは理解しがたい。読んでないのではないか。もしくは、読めてないのか。

というのも吉川英治には意図があって、そう書いたからだ。

 

吉川英治の実家自体が衰運によって、若い頃非常に苦労した。そのことについて書きたいから、兄は女で身を持ち崩し、弟は思想にかぶれてしまった、という設定にしたのである。時代に翻弄される父親の心情を書いたのだ。

吉川英治の作品には共通項があって、時代に翻弄される大衆を描くということだ。それは時代の変化とは関係がない。平家物語では麻鳥というオリジナルキャラクターまで登場させる。

だから、兄庄次郎は愚物に描かれる。幇間としてきちんと身を立てるのであるから、まったくの愚物ではないのだろうが。

 

庄次郎は作中、鳥羽伏見の戦いに出くわす。妓楼にいるのであるが、女もみんな家財道具を持って逃げ出す。庄次郎はそこに居座って、戦いで飛び交う砲弾を聞きながら酒を飲みまくる。薩長軍に見つかって、砲火のなか逃げまくる。そのときの街の情景に、関東大震災の影響があると思われる。

地震の前の妙な生暖かな様子、川を流れてくる死体などの描写にそれは現れている。

 

この作品のおもしろさは、明治維新の騒乱を英雄ではなく、江戸の市民の視点から描いているところだ。なにかことが起これば、我々一般市民は右往左往するしかない。

東日本大震災を経験し、北朝鮮がミサイルを撃ってきた今、そう思うのである。

松のや露八 (吉川英治歴史時代文庫)

松のや露八 (吉川英治歴史時代文庫)

 

 

 

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「投資バカ」&「元コンビニ店員だけど、FXで月給100万ちょいもらっている話」

投資バカ 賢い人は金融機関を信じない (朝日新書)

 

小説を書くのに、参考にしようと思って、両書を読んだ。

投資をやる人間というのはどういう傾向を持つのか、ということを知るためだ。

 

その目的に合致しているのは、(意外だろうか)「FXで~」の方だった。その傾向は別の記事に書くとする。

この記事のタイトルに惹かれてやってきた人は、投資について興味がある人だろう。

両書の特徴は、同じ展開をしているということだ。

著者の新山優氏、中野晴啓(はるひろ)氏には目的がきちんとあって、本を書いている。

新山氏は自分が儲けられるようになった経験を書き、もしかすると自分の元へ人を呼びたいのかもしれない。

中野氏は自身の会社の投資信託へ誘導したいのである。

それぞれの目的をきちんと把握した上で、読むべきである。

 

二人とも、自身の失敗をまず書く。

新山氏はFXで儲けられなかったこと。中野氏は自身が株式投資で失敗したこと。両者が借金を負ったことから話を始める。

そして、新山氏はとあるセミナーに参加したこと、中野氏は目覚めによって、開眼していく。

ここからがちょっと違う。最終的な目的は、それぞれ書いた。

 

中野氏は草食の投資を推奨する。

なぜ推奨するのか。

それは結局短期投資では儲けられないからだ。

たとえば、FXなど短期投資では売り買いのタイミングが重要だ。大きく儲けるには大きく相場が変動するタイミングを見極めねばならない。だが、数十年で1980年から2008年までの28年間、1万277日で、大きく上昇するタイミングは10日しかないということだ。

巨人ウォーレン・バフェットが、相場師の予想の逆張りをしまくったことがあったらしい。逆の動きに張ったのに、儲けてしまったらしい。ちょっと驚いた。

このようにして、投資は短期で行うものではなく、長期を行うもの、しかも株式の長期保有ではなく、投資信託の方が良いよ、ということを他の金融商品を否定しながら誘導していくのである。

 

新山氏の場合。

そのセミナーで基本的な投資のルールを教わる。

それは売買のタイミングのことである。損をしている人間は損をするタイミングで売買をしているのである、とセミナーの講師は説く。

だが、そのタイミングとはいつなのか。それを示すために、一般的な市場分析の手法を否定していく。そして、自身が行っている手法へ誘導していくのである。

これ以上は書けない。あまりにも内容が薄いからだ。実際に読んでみてほしい。

 

どちらも目的があって書かれたものなので、「なーんだ」と思ったら読めないと思ったら間違いで、実はその否定の論理こそが読む価値がある部分である。

そこにさまざまな分析手法や投資分析の短所が書かれているのである。

どちらがおすすめかというと、「投資バカ」の方だ。

 

投資バカ 賢い人は金融機関を信じない (朝日新書)

投資バカ 賢い人は金融機関を信じない (朝日新書)

 

 

 

元コンビニ店員だけど、FXで月給100万ちょい もらってる話

元コンビニ店員だけど、FXで月給100万ちょい もらってる話

 

 

 

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池上彰「世界を動かす巨人たち<経済人編>」

 

 

世界を動かす巨人たち <経済人編> (集英社新書)

世界を動かす巨人たち <経済人編> (集英社新書)

 

 夏休みももうすぐ終わり。

宿題に追われている子どももいることだろう。特に読書感想文はだるい。

ちょっと前は、夏休みの宿題の量も減ったらしい。そのぶん、私立受験対策のための勉強をしてくれということだったらしい。今はその反動か、宿題がしっかり出ると聞いている。

 

結局何を読むのか考えるのがだるい。

そんな子どもには伝記を勧めてはいかがだろうか。

人の人生ほど面白いものはない。しかも伝記は人生を面白おかしく読めるように編集もしている。

 

この本は、安定の池上彰ブランドである。

普段の池上彰の番組のように、この本も読みやすく書いてある。

誰のじんせいが書かれているかというと、

ジャック・マー、ルパート・マードックウォーレン・バフェットビル・ゲイツジェフ・ベゾスドナルド・トランプマーク・ザッカーバーグラリー・ペイジ&セルゲイ・ミハイロビッチ・ブリン、コーク兄弟(チャールズ・コーク、ミハイル・コーク)

である。

それぞれがとても面白い。

 

最近でいうとIT起業家はかならず自分がアウトサイダーだということをアピールする。いかに、自分が学生時代に落ちこぼれであったかを話す。もしかすると新しい産業で成功するときにおこる「あるある」なのかもしれない。かの発明王エジソンも、自分がいかに学校になじめなかったか、というエピソードがある。基礎的な小学校の勉強は母親から教わったというエピソードを読んだことがある。

それが、ジャック・マーの経歴に現れている。自分がどれだけ学力や就職で苦労したかを語る。だが、そこは語り手が池上彰ということで、それが嘘だと見破られる。

結局新しい産業では、専門家と民間人の技術に差がないからである。それが徐々に逆転される。そうすると、専門教育を受けるメリットが増して、やがて経歴的に学力が低いということがなくなっていく。

 

また言い方は悪いが、マードックなど、ホリエモンの元ネタのような人物も出てくる。そんな発見もある。

 

そんな自分なりの発見がある本で、それを読書感想文で書けばいいじゃん。

 個人的にはバフェットとマー、ザッカーバーグが好きである。はったりという意味では似ているのだが、マードックは嫌いだ。可愛げがない。

 

 

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プレジデント二〇一七・五・二九号「孫子の兵法」

 

先ほど報道で、小池都知事が脱藩じゃなくて、自民党を離党した。

 

www.msn.com

 バックナンバーになって申し訳ない。

先日締め切りの短編小説の集いの作品を書いていてなかなか読めなかったプレジデント。普段買うわけではないが、「孫子」の文字を見て衝動買いしてしまった。

 

小池都知事孫子の兵法に小さな頃から親しみがあったそうだ。お父さんは貿易商であった。その後、石原慎太郎が新党を結成することをにらんで、その前段階の会の推薦を受け、神戸から立候補するが落選する。その父が、小池百合子が幼少の折、「日本は戦略をもたなくてはならない」と戦略について話していたそうだ。そして小池自身、「丸」という今では軍事専門誌、かつては総合誌だった雑誌の愛読者だった。またマーケティングも好きなのだそうだ。「孫子」関連本も多くもっている。

これまでの都知事選を「孫子」になぞらえて池上彰とともに解説していく。

が、そのなかに「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」というのがある。戦う前に十分な準備をしてから戦うものが勝つというものだ。当たり前のように聞こえて、案外できないものだ。

また、「始めは処女の如くにして、敵人、戸を開き、後には脱兎の如くにして、敵、拒ぐに及ばす」という言葉も出てくる。池上彰が対談を振り返って書いたエッセイの中に出てくる。

つまり、敵の油断を誘っておいて、あとは速攻するということだ。

二つの言葉を合わせると、小池百合子の脱党ではなくて離党は、「準備が完了した」ということを示す。

離党という記事を見て、ちょっとにやっとしてしまった。

小池百合子の都知事選を見ていて思ったのだが、一番好感を持てるのが、公約などに「女性(のみ)が活躍できる社会」とか「生活者視点」とか、政治ができるわけないことを書いていなかったことだ。

www.yuriko.or.jp

別に自分が女性なんかどうでもいい、と思っているわけではない。「女性中心」といえば男性が除外される。男性でも同じだ。若者といってもいいし、老人といってもいい。面白いことに、「全員活躍できる」と書いている。「人の耳目を一にする」と言う言葉に沿っているのかもしれない。これは「将卒の統率が大事」という意味だ。だれも自分に関係のない言葉には注意を払わない。

 面白いと思ったので興味のある人は読んでみるとよい。

 ただ、後半はいただけなかった。

 

ソフトバンク孫正義孫子が好きだ。その思想を、二五文字の漢字にして示した。問う話は有名だ。そこから孫正義の略歴が語られる。大体みな知っているだろう。

 

そして、個人の生き方に「孫子」はあてはまるかという特集が為されていた。

そのあとは、色々な業種の企業が危地をどう脱したか、斉藤孝が解説する「頭の良い子どもを作る方法」というのはどうでもいい。というか、興味のある人間は見ればいい。ほとんど孫子の言葉は付け足しである。結局、成功する前に孫子を利用して動き勝たないと、意味がない。

問題は個人の生き方に「孫子」は通用するか、だ。

例えば、「リストラを命じられたらどうするか」などというケーススタディになっている。そこに書かれた正解は「まずは残したい部下と面談し、味方を作れ」である。ただ考えてほしい。上司はあなたのことが大切な部下だと考えたら、恨まれるリストラなどを頼むだろうか。それにリストラをした上司に部下が信頼をよせるかどうかは、ある種の賭だ。特に今の若手はすぐに職場を去るのだから、一気に冷めて辞めてしまう可能性もある。

だから、答えは「あきらめて粛々とリストラをする」である。おそらく部下に嫌われるだろうが、それはしかたがない。

このあたりを読んでちょっと冷めた。

 

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又吉直樹「劇場」を読む。

 

又吉直樹芥川賞受賞後、第一作目「劇場」を読み終えた。

ここから、感想を書くが「劇場」を読んでから、この話を読み進めたほうがよい。

この作品を端的に表現すれば、「ベタな内容な物語を作者の文章力で装飾した」作品だ。ただ世の中の小説を面白いものと面白くないものに大雑把に分ければ、確実に面白い方に入る。しかもかなり高いレベルで。何よりもこの小説のことを考えるのは楽しい。

 

主人公永田、その恋人沙希の出会いとその関係性が純愛であることから、最終的にどうなるかは察しがつく。大ブームとなった「逃げるは恥だが役に立つ」の逆だろう。逃げ恥の新垣結衣はかわいいけれども、沙希はあまり美人に感じないのは私だけだろうか。下北沢にはたくさんいそうだけど。

読者の目線からすれば二人が最終的に別れるという展開は容易に想像できる。沙希は初めから無理をしすぎている。それにあまりにも将来のことを話さない。作品上は別れる理由は明示されていない。理由はあったはずだが、最後の最後で打ち消されてしまう。本人たちが気づいていない形で理由は進行している。

強いて明示されている理由を言えば、青山という女性の存在が理由である。おそらく二十代半ばであろう女性が、相手のことが嫌いだからといって、作品中のような行動をとるのかどうか。そのあたりに少々違和感をいだいた。むかついたらもう関わらないのではないだろうか。しかも永田からいったんは離れていっている。わざわざ青山の方から関係を修復することは、通常はないだろう。

本来は沙希に対して嫉妬の理由を用意すると、すっと読めたのかもしれない。沙希は気づいていないが、実は青山は沙希が嫌いならば、このような行動も合点がいく。ただ、文章としてはあまり美しくないものになる。青山はその場合、目的を達するために複雑な行動をとることになり、それが物語にとってはノイズになるからだ。

ただ、昔に比べて男も女も通常の年齢より幼い感じがするので、あり得ない話しではないのかもしれない。沙希を徹頭徹尾、内面が美しい女性として描いているので、青山のえげつなさが際立つ。こういう女子(とあえて書く。普通は若い女性限定の行動だ)は自分が絶対の正義をもっていると勘違いしている分、たちが悪い。本当に悪い。

 

古典作品のような骨太さを持つ物語であるが、古典的な古い人間観を引きずっているようにも感じる。背後にシェイクスピアの顔が見える。青山は狂言回しなのである。

また物語が先に存在し、人物を物語の都合のよいように配置したのだろうと勘繰ってしまう。それくらい物語にとって人物たちの存在が、都合がよすぎるのである。

沙希の考え方も行動も古い。受け身すぎるのである。もちろん、そこは又吉も意識していて、あるシーンで反論する。だが、沙希みたいな若い女性を今探すのは大変だろう。

さて、最終的に破局は「自分が悪い」と二人とも思っている。ならば、別れる必要がない、と感じるのは私だけだろうか。どうして自分が悪いと思っているのかは、もしかするとこれから読むかもしれない読者の為に書かない。

 

 

中学時代からの親友で、劇団「おろか」をともに主催する野原が位置的にもう少し活躍してもよい気がする。もしかすると、野原に沙希を強奪されるのではないかと思っていたが、肩透かしを食った。

この物語は確か大幅に書き換えられているはずである。野原は前の作品ではもう少し別の存在だったのかもしれない。あえて書く必要がない気もした。

 

前作に比べても今回の作品は文章が読みやすくなっていると感じる。

関西の小説家の癖なのだろうか。読後感をよくするために最後に綺麗なシーンを入れる。しかし、冷静になって読んでみると、とんでもないことに気づく。作品が最後に全部打ち消されてしまうのである。二人の関係は、いったいどのようなものなのか。なんとなく、読み手の性格が反映されてしまう気がする。ちなみに、私は全部幻想だと取った。上段で、人物の配置が物語の都合に合わせすぎている、と書いたが、二人の関係もある意味お互いに都合がよいから存在していた。純愛でもないのだろうと思った。

新宿から神宮の辺りまではよく散歩することがあったが、場所の雰囲気がよくでていた。場所をとても大切にしている小説である。あの辺りの店って、誰に商品を売りたいのかわからない。すごく狭い商圏である。その空気がよくでていた。

 

読み終えて、数時間経ってから書いているが、もう少し悲劇性があってもよいかもしれないと思った。もしくは、二人で乗り越えちゃった方が、今の読者が望む形にはなるだろう。ただ、太宰治好きとしてはあのような展開になるのは必然なのかもしれない。

結局は二人の悲劇性はまるで解決されないという、ある意味心中するよりも不幸な小説である。これから読む人は、覚悟をする必要がある。文章を味わうという意味では今現役の作家ではトップクラスの味わい深さがある気がする。

 

劇場

劇場

 

 

 

 

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逆説の日本史22

 

井沢元彦が長年執筆を続けてきた、「逆説の日本史」が折り返し地点? にたどり着いた。

簡単にいえば、近世が終わり、いよいよ近代に突入する。その手前まで終わったということだ。具体的には西郷隆盛が反乱を起こす、「西南戦争」まで終了した。

終了記念ではないが、補遺(書物などで、漏れ落ちた事柄をあとから補うこと。また、その補ったもの)が収録されている。その部分について今回は触れていきたい。

 

「漏れ落ちている」部分とは、

このシリーズの目的とは「通史を書くこと」である。それも、いわゆる歴史学会が作り上げた日本史の欠如した部分を補完しながら書いている。その欠如した部分は三つあると井沢は言う。。

1,資料偏重主義

2,宗教的な知識の欠如、もしくは無視。

3,権威主義

の三つである。この部分を補完しながら日本史の通史を書こうというのが目的である。古代(平安時代まで)は三つの欠如が十分に説明されている。が、鎌倉時代からはそれがちょっと鳴りを潜める。どうしてなのだろうか、と思っていたが、その部分についての説明も行われていた。

井沢は、日本には二つの文化の相克があると考えている。それは「縄文文化」と「弥生文化」の二つである。このシリーズの最大の特徴である、「ケガレ」という文化は「弥生文化」の発想であるとしている。主に縄文文化=東日本中心、弥生文化=西日本中心に展開している。だから西日本には部落差別が多いのだそうだ。

この指摘には少し無理がある。

東日本の文化である江戸幕府にも「ケガレ」の発想がある。江戸の街でも、市外に出なければ禽獣の類いは食べられなかった。隅田川の周辺、特に市外側を行くとももんじ(猪)料理屋さんが並んでいるのもその名残だろう。徳川政権自体が東日本(静岡)出身の政権であり、本当は井沢の言うところの弥生文化が入る余地はない。

政権が長期化すると貴族化する、貴族化すると「ケガレ」的な発想が顕在化するというのが正確なのだろう。

これは日本だけの傾向ではなく、様々な国は差別を旨く利用して統治している例が多い。カースト制とかね。

 

このように突っ込みどころの多いシリーズではある。妙に信長を持ち上げるところ(井沢は愛知出身)や、やや妄想なんじゃないかという見解もある。が、作家の書く日本論だと思えば楽しめる。

よく著書のなかで憲法の問題などを口にする。

ということは、井沢が書きたいのは近代なのだろう。ここからがやっと本論である。

個人的には、書き終える前に死んでしまうのではないかと思っていた。雑誌で連載しているのだが、一回ずつの分量が少なく、しかも必ず冒頭で前回の展開を振り返っていた。このペースで終わるのかと思っていたが、なんとかなりそうである。

 

 

 

「現代落語論」立川談志

 

談志CD大全 21世紀BOX

 

 先年、といってももう2011年だからずいぶんと前になるが、なくなった立川談志が書いた本である。帯には、「これが落語家がはじめて書いた本である」とぶってあった。そんなものか、まあ噺家なのだから当たり前か、と文言を見て思ったが、はたして本当かどうか。

 

 談志の落語論といえば、「落語とは業の肯定である」という有名な文言がある。それは続編の現代落語論に書かれた文句である。その節は、落語協会と真打ち昇進に絡んで揉め、協会脱退、周囲はみんな敵という状態だった。起死回生の一撃と言わんばかりに、続編を書いた。

 この本はその前の本で、落語家になるまでの経緯が書かれている。

 「三つ子の魂百まで」と言う。

 四十になって思うが、人とはそれほど成長も変化もしないものである。すごい人間とは昔からすごいのであり、そうでもない人間はそうでもないのである。

 ただし、すごくないのに、周囲の環境が変化して、すごいことになっちゃったという人間はいる。昔は蔑まれるような奴らだったコンピュータ好きが、いつのまにかIT長者になったりする。それは本人がすごいのではなく、環境の変化がすごいのである。

 やっかみか。

 談志はどうかと言えば、本人の言を信じれば、昔から談志なのである。

 数学と国語・漢文の授業は聞くけれども、その他はハナからバカにして聞いていない。銅線とか真鍮とか拾っては売っぱらってそれを元手に寄席がよいをしていた。おそらく朝鮮戦争の時期で、金属が国内で不足していた。特需である。だから、こういう芸当ができるのだろう。

 教師に対しては裏切り者という意識が強い。この頃の教師に対しては、子どもはこういう意識を持つことが多いらしい。第二次世界大戦が終わり、教師たちが教育を次々と民主教育に鞍替えしていった。その無責任ぷりに、こいつらは嘘つきだと子供心に思ったそうだ。以前、本屋で平積みになっていた大江健三郎の本に、「その日から私はあまりの世界の転変に高熱を発し、高熱を発したまま森へ行った」というような内容のことが書いてあったが、それは誇張だと思う。

 そのおかげで松岡少年(談志の本名は松岡克由)は寄席という学校以外の世界を獲得する。そしてやがて柳家小さんに弟子入りする。ちゃらんぽらんにやっていても、高校へは行けたのだから、バカではない。それでも中退してしまう。

 

 前回司馬遼太郎の新書を引いて、「いまも昭和三十年代もサラリーマンはさして変わらない」というようなことを書いた。が、もしも昭和時代と平成時代の少年を比べたとすれば、「外の世界をもっているか」という点は違うと思う。

 今は社会全体が学校に若者を閉じ込めようとばかりしている。管理社会が問題になったのは八〇年代のことだが、今の方が管理というより、監視の目が強くなっているような気がする。

 世の中色々な人間がいて、もちろん学校や学校の延長のスポーツで成功する人間も居るが、学校の外には様々な世界があって、もしかするとそっちの方が君は向いているかもしれないよ、ということを若者が学びにくい状況になっている。

 卵子に群がる精子のように、猫もしゃくしも優良企業に行くのが成功だという風潮は窮屈である。成功たって、年間ウン億円稼げるわけでもなし。

 そんなことを考えながら読んだ。

 

 本書ではもちろん落語について語っているのだが、その豊かさに感心してしまう。ちょっとでも落語に興味がある人は是非にお読みください。

 おっかない談志の人間的な魅力が(男子自身はこういう風に言われるのを嫌いそうだが)よくわかる一冊である。

 

現代落語論 (三一新書 507)

現代落語論 (三一新書 507)

 

 

 

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逆説の日本史&「家康研究の最前線」

 

安倍晋三首相は、自身が長州出身であることを誇っている。

それについて否定するつもりはない。

 

逆説の日本史という、井沢元彦がライフワークとして続けているシリーズがある。資料偏重主義の日本史の学者が見落としがちな、その当時の常識を駆使することで、新しい歴史的な見方を作っていこうというシリーズだ。

今二二巻を読んでいて、内容は幕末から明治維新にかけてをやっている。

ちなみに、この時代は人気があるのだが、大河ドラマなどではそれほどの視聴率を出さない時代でもあるらしい。どうしても戦国時代が強い。ちょっとイカレてて、陰惨な空気があるからか。意味のあるのかわからない暗殺などが暗躍している時代だから。新撰組とか、冷静に考えるととんでもない殺人集団である。どこに正当性があるかどうかもよくわからなくなってくる。

 

これは世の常だが、不正というのが多く発生した。

ちょうど井上馨が不当に官営工場を払い下げしたところを読んでいて、「長州人は金に汚い」と井沢元彦が言い切っている。それを読んでいるときに籠池理事長率いる森友学園問題が発生して、本当に笑ってしまった。その印象もあって、「まあ、なんかやってるんだろう」と思ってしまった。

 

歴史研究者と歴史小説家をどこでわけるかというと作中に筆者の考えや感覚が登場するかどうかだろう。小説というのはどこまで分け入っても、最終的には私小説なのである。

 

 

「家康研究の最前線」は一方で、井沢元彦にくさされている、資料偏重主義の極地である。ところが面白い。

家康の出自や一向宗との関わりなど、最新の研究を踏まえて、多くの学者が成果を論述している。

結局近代以降でもそうなのだが、政権が大幅に変わった場合、新しい政権は自分たちを礼賛する歴史を作り上げなければならない。それによって、正当性が担保される。今安倍政権が考えている歴史の定義を新しく書き換えるという作業も、その延長線上にある。歴史とは政権から自由になれないのかもしれない。常に「忖度」、「斟酌」した側が生き残る。

明治政府がそのような書き換えを行った前は、徳川政権がその正当性を作り上げるために、歴史の書き換えを行った。それが、いわゆる神君家康思想なのである。つまり、政権運営に都合の悪い家康の事実などは隠蔽される傾向にある。その思想でいえば、家康は源氏の血を引いていることになる。もちろん、嘘だろう。

それに豊臣政権のなかにおける家康の位置も実際とは違う形で歴史として伝わっている可能性もあるらしい。家康は秀吉にとって、ライバルというよりはよき家臣として存在していた。通説である、「関東転封は疎ましいと思っていた家康を政権中枢から遠ざけるために行った」のではなく、「東北の押さえとして、信頼する家康を送った」らしい。

このように資料をもとに行った、家康像を事実に近づける作業は読み応えがあった。

 

家康研究の最前線 (歴史新書y)

家康研究の最前線 (歴史新書y)

 

 

 

 

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生き方を見直す。「不運と思うな」伊集院静

 

 他人のせいにして生きるのは楽だ。

 国のせいにするのは楽だ。

 時代のせいにするのは楽だ。

 とかく人は不遇をかこったとき、自分以外の何かに原因を求める。納得いかない人生を、そうして落トシマエをつける。できればだれも傷つかない、大きな集団の方がよい。だがその矛先が弱者へ向かうことがよくある。であったことのない他者へ。そうして差別が始まる。

 本書のテーマは「引き受ける勇気」だ。

 不遇を運・不運のせいにしない、ということは自分の人生と真っ正面からがっぷり四つに組むということだ。

 存外、これが難しい。

 伊集院静の今の妻は篠ひろ子だが、前妻は夏目雅子だ。白血病のために夭逝した。またもっと若いころに、父親と弟を亡くした。伊集院の人生にはとかく死がつきまとう。

 かつては、亡くなった人々の再生を願っていた、と伊集院は言う。ところが、最近は変化したらしい。

 文字通り冥福を祈るようになった。亡くなった人々の短い人生の中にも四季があり、紆余曲折があった。それはそれで充実した人生であった。そう考えるようになったからだ。

 本書に幾度も登場する出来事がある。それは東日本大震災だ。

 自宅のある仙台で彼も被災した。その時の経験が死生観に影響を与えたに違いない。海岸線に横たわる無数の被災者の様子を伝える報道のシーン。自身が被災し、多くの人々が難渋した未曽有の大災害の前では、どんな人生でも納得しなければならない。否定などできない。他人のせいにできない。「自分は不運だ」などといじけることもできないのである。

 自分の人生を引き受ける生き方とは、美しく生きることと同義だ。いつ死んでもおかしくないと構え、言葉一つにも注意を払う。想像力を働かせる。

 スティーブ・ジョブズの生き方とは違う。彼は毎朝、「今日が最後の日かもしれぬ」的なことを言って覚悟を決めていた。そして他者に対しては、ご無体な要求をしていたらしい。敵も多かった。

 伊集院の場合は他者に対する尊敬が基本的に存在する。美しく生きる者へ対する尊敬。自分のダメさも引き受ける。酒におぼれて朝ホテルの床で寝ているという体たらくも引き受ける。本当に駄目な奴には嫌悪するのだが。

 それにしても、目上の人間についでに頼みごとをするのをいやがったり、ものの頼み方の手順が雑だと怒るのは、ちとやり過ぎかもしれない。目上の人の携帯に電話するのは無礼とか、10回以上コールするな、とか。よっぽどまのわるい編集担当がいたんだろうね。

 以前ビートたけし伊集院静の生き方を「非常にかっこいいだなあ」と褒めていた。そんな伊集院静の生き方がよく出ている本である。

不運と思うな。大人の流儀6 a genuine way of life

不運と思うな。大人の流儀6 a genuine way of life

 

 

 

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