池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

逆説の日本史22

 

井沢元彦が長年執筆を続けてきた、「逆説の日本史」が折り返し地点? にたどり着いた。

簡単にいえば、近世が終わり、いよいよ近代に突入する。その手前まで終わったということだ。具体的には西郷隆盛が反乱を起こす、「西南戦争」まで終了した。

終了記念ではないが、補遺(書物などで、漏れ落ちた事柄をあとから補うこと。また、その補ったもの)が収録されている。その部分について今回は触れていきたい。

 

「漏れ落ちている」部分とは、

このシリーズの目的とは「通史を書くこと」である。それも、いわゆる歴史学会が作り上げた日本史の欠如した部分を補完しながら書いている。その欠如した部分は三つあると井沢は言う。。

1,資料偏重主義

2,宗教的な知識の欠如、もしくは無視。

3,権威主義

の三つである。この部分を補完しながら日本史の通史を書こうというのが目的である。古代(平安時代まで)は三つの欠如が十分に説明されている。が、鎌倉時代からはそれがちょっと鳴りを潜める。どうしてなのだろうか、と思っていたが、その部分についての説明も行われていた。

井沢は、日本には二つの文化の相克があると考えている。それは「縄文文化」と「弥生文化」の二つである。このシリーズの最大の特徴である、「ケガレ」という文化は「弥生文化」の発想であるとしている。主に縄文文化=東日本中心、弥生文化=西日本中心に展開している。だから西日本には部落差別が多いのだそうだ。

この指摘には少し無理がある。

東日本の文化である江戸幕府にも「ケガレ」の発想がある。江戸の街でも、市外に出なければ禽獣の類いは食べられなかった。隅田川の周辺、特に市外側を行くとももんじ(猪)料理屋さんが並んでいるのもその名残だろう。徳川政権自体が東日本(静岡)出身の政権であり、本当は井沢の言うところの弥生文化が入る余地はない。

政権が長期化すると貴族化する、貴族化すると「ケガレ」的な発想が顕在化するというのが正確なのだろう。

これは日本だけの傾向ではなく、様々な国は差別を旨く利用して統治している例が多い。カースト制とかね。

 

このように突っ込みどころの多いシリーズではある。妙に信長を持ち上げるところ(井沢は愛知出身)や、やや妄想なんじゃないかという見解もある。が、作家の書く日本論だと思えば楽しめる。

よく著書のなかで憲法の問題などを口にする。

ということは、井沢が書きたいのは近代なのだろう。ここからがやっと本論である。

個人的には、書き終える前に死んでしまうのではないかと思っていた。雑誌で連載しているのだが、一回ずつの分量が少なく、しかも必ず冒頭で前回の展開を振り返っていた。このペースで終わるのかと思っていたが、なんとかなりそうである。