池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

「ビジネスエリートの新論語」司馬遼太郎

 

この文章は、司馬遼太郎産経新聞の記者だった当時に書かれたものだ。古今東西の警句を元に、新しい論語を作り出そうと試みている。

当時三十代であった司馬遼太郎の若々しい文章が読めるのも楽しいのだが、何冊かサラリーマン小説をもとにサラリーマンの生態を書き表しているその観察眼の素晴らしさも味わえる。

 

読んでいて、この時代も今も、サラリーマンとは同じものなのだと始め、興味深かった。これは昭和三十年代の文章だが、上司との関係、同僚との関係、家族との関係、女性のサラリーマンとは、など、平成二十九年の現代と考え方がさほどかわらない。

同僚について、を例に引こう。

 

親友道と仲間道

  我々は友人はなくても生きて平受ける。けれども隣人なしには生きていけない。(トーマスフラワー)

 

  「親友」がないと言うのは、不幸なことだが。が、「仲間」のないサラリーマンなんてのはありこないまい。同じ職場の同僚、これらをを「親友」とは別個に「仲間」というカテゴリーで考えてみよう。

  もともと「親友」と言う人間関係は、人類の中で最も素晴らしいものだし、古来、これに対しては高い精神的地位と美しい言葉がふんだんに付与されてきた。

(中略)

  ところが、「仲間」と言うものについてはあまり語られていない。サラリーマンにとっては、遠い朝よりも近くの仲間の方が、はるかに良い事業の中大事なのだ。

「仲間」というのは友のように必ずしも神の本体でもなければ、1つの魂でもなく、単に偶然、同じ職場で集い合うた人間の関係に過ぎない。たまたまそこに「友人」を発見することもあり得るかもしれないが、多くの場合、つながりの店で何の精神的必然性も持たないのが普通だ。

(中略)

 「仲間道」を説明しよう。

「友人」における「友情」とは、多少オモムキを異にする。第一、嫌な相手なら誰でも彼を友人にしっこないのだが、「仲間」の場合なら、当然で顔を見るだけでもムシズが走りそうな人物の混入することも覚悟せねばならない。しかも彼と毎日、同じ部屋で同じ空気をきっかり8時間は吸い合わねばならないのだ。友人に対しては、絶交という自由はある。しかし、仲間に対しては仲間たることを拒絶する自由は誰も持たない。

もう一つ大事な事は、「仲間」は、場合によっては敵に変化することがあり得るということだ。嫌な事だが、「仲間を見れば敵と思え」こういう覚悟も一応は腹の底に決めておかねばならない。

(「ビジネスエリートの新論語」P六七〜六九)

 

この後に仲間道では、「そういう薄い関係なうえに、絶交ができない仲だから、こちらから裏切らないこと」ということが書かれて行く。それこそ、友人とは違うのだが、仲間とは複数である。相手から裏切れば、(よほどあなたが嫌われていないのなら)同情論が湧いてくる。

クスッと笑ってしまう内容だ。結局、逆にいえば、サラリーマンは仲間がこれくらい友人よりも薄い関係であるから、共に商売をしてゆけるのである。

引いてみればこのような話はパワーバランスをコントロールしなさいというように読めてしまう。

 

この本を読んでいて思うのは、今とさほど変わらない感覚で読めるということだ。おそらく、今にも続くサラリーマンというのは、昭和三十年代には完成に至っていたということだろう。

 

最近、「三十代になって気づいたこと」とか「三十五歳になって気づいたこと」という内容の記事があった。三十五歳の方は、おそろしく贅沢な内容だ。「うちの会社やばいかもしれない」と思っている人間は絶対にできない発想だ。

 

 

news.livedoor.com


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そんな安泰ないい企業に勤めているのか、実家がしっかりしているのか、と忖度するが、真意は図りかねた。大阪府庁で働いていたらクビだろう。この程度の忖度ができないのなら。

 

そんな人間への警句も一応存在した。あげよう。

ある重役がいった。

サラリーマンをみていると、次のようなことがいえると。

二十で希望に燃えている者が二十五になると疑いを持つ。三十でそれが迷いになり、三十五であきらめる。会社を辞める年令は大体三十から三十五の間だ。四十になると保身に専念し、四十五になると慾がでる。

私には信じられないが、そういうものなのだろう。三十五になり諦める。

モチベーションを保ち続けるのは確かに大変なことだ。二十五になってもつ疑いの理由を、司馬遼太郎はその人間の置かれている状況によるとしている。低収入、出世、閥などだ。だが、社会の底に不安があるのだろうとする。

誘因は様々だが、それでも意欲的に仕事への情熱をかきたててゆきたい人のために救いの契機となる名言をあげる。

「職業は、生活の脊骨である」ーーニーチェ

「人生は活動のなかにあり、貧しき休息は死を意味している」ーーヴォルテール

「試作しないで、自分を働かすがよい。これこそ、人生を堪えうるものにさせる唯一の方法だ」ーーヴォルテール

「業を得た人は、生涯の目的を得た人である。すでにこれを得た人は、必ず勤勉でなければならない」ーーカーライル

「君の活動、ただ君の活動のみが、君の価値を決定するものだ」ーーフィヒテ

「私の成功はないひとえに勤勉にあった。私は一生のあいだ、一片のパンも座して食うことはしなかった」ーーウェブスター

「多忙な蜜蜂に悲しむ暇がない」ーーブレーク

「人間がいる幸福であるために避くべからざる条件は勤労である」ーートルストイ

(前掲書より)

並べられると、意欲もなえるよね。

ここで大笑いしてしまった。

この本は昭和三十年代のサラリーマンを描写しいるのだと思っていた。肯定的に書いているのだと思ったのだが、このあたりを読んでいて、違和感を持った。司馬遼太郎はそんなサラリーマンをよしとはしていないのだと。

その理由は、第二部になってわかる。

そこでは、司馬遼太郎が新聞記者時代に出会った先輩たちとの逸話が書かれていた。古武士のような佇まいの先輩に福田定一司馬遼太郎の本名)は感化された。切った張ったの新聞の世界。そこで生きるということは、出世よりも何よりも大切なことがある。それを教わる。

その生き方は一部までのサラリーマン像とは真逆だ。

第二部のための第一部であるような気すらしてしまう。

結果とは、ここまで読むとサラリーマンとして生きる意欲が湧いてくるだろう。自分の職業にとっての、理想のサラリーマン像とはどんな姿であるか、それを探したくなるのである。