池波正太郎をめざして

読書の栞

日々の読書の記録、感想を書きます。

箱根の坂(下)感想。

 

 箱根の坂の下巻。最終巻です。

あらすじ

 駿河の東端にある興国寺城のあるじとなった早雲。

 四公六民という破格の年貢割合を守るためには、興国寺だけでなく、伊豆、ひいては板東に大きな領国を得ないとならない。手がかりに伊豆を攻めると宗瑞は決意する。伊豆は山塊があり、物なりはそれほど良くない。だが、金がとれた。それを当てにしているのである。

 その当時の伊豆は、堀越公方である足利政知が収めていた。宗瑞は堀越公方はいずれ自壊するのではないかと見ている。なぜなら、公方は実質的な力に形骸化した権力で君臨しているだけであるから、なにかきっかけがあれば簡単に崩壊するのである。そしてそのきっかけが存在した。この時期ではありがちなのだが、相続問題である。現公方は、長男を排して、次男を跡継ぎにしようと思っていた。次男を産んだ妻を気に入っていたのである。

 ある日、長男が暴走した。父と義理の母である、次男の母を刺し殺した。次男は逃げ延びて、宗瑞の元で出家する。

 その不義を旗印に宗瑞は伊豆を攻める。

 伊豆を攻め取った宗瑞は、そのあと小田原、相模を攻め取る機会を待つ。

感想

 この本で司馬遼太郎が言いたかったのは、実質をどう見るかだと私は思う。

 平安時代から常に起こっているのは、地下人と呼ばれていた層の台頭である。農民も生産力を向上させ、商人がいなければ利が得られない。仏教の宗派の求心力も強くなる。そして足軽と呼ばれる人々が登場する。もう少しあとには足軽といえば、単に非力な歩兵というイメージになるのだが、この時代の足軽とは歩兵による集団戦法の担い手であり、応仁の乱ではこれが徒党を組んで、戦局を左右していた。これらを上手く取り込むには、上から権威で押さえつけるのではなく、彼らの利益を約束することが必要であった。早雲は、これら室町末期までに対等してきた地下人の利益を代表する存在になることが必要であると考え、実行し、門下生とも言える、今川氏親今川義元の父)に説いた。

 この時代の「実」とはそういう人々の存在である。その「実」とは必ず、旧態依然な勢力の規範には収まらず、不愉快な存在に写るはずだ。

 利益を代表しているだけでなく、それが可能である人「頼うだるお人」である必要がある。「頼うだるお人」が何かを頼めば、従うものは何も言わずそれに従い、その代わり従うものの利益は「頼うだるお人」が保証する。そういう関係にふさわしい人物である必要がある。早雲は、歳を取れば取るほど清らかな存在になっていく。神々しく、仙人のようになっていった。そんな姿で供をろくに連れず田畑を歩いて行き、それを領民が見、語らえばそれは誰もが信服していくだろう。説得力がある人だった。

 一方で旧態依然化した領主たちは無為徒食(無駄飯食い)な存在だった。

 会社でもそうだが、そういう「実」を持った人間は必ず、人事を使って人を支配しようとする。その人事権が権威の正体だ。ただ、「実」を持った人間には絶対に敵わない・・・・・・、と信じたい。

 そういう旧態依然な貴族化している。日本人の典型例で出世していくと最後は権威だけを振りかざす存在となる。それだけで飯を食おうという浅ましい存在だ。

 室町時代末期の将軍家・大名家は、軒並み貴族化していて、あまつさえ役に立たないのに、そのうえ相続争いに民衆まで巻き込む、厄介な存在だった。そういう存在に宗瑞は若いころから巻き込まれてきた。それが許せなかった。民衆は台頭していて、民衆に自由な活動をさせれば、もっと社会が豊かになるのにそれをさせない。それをなんとかしたかったというのが、この小説の骨子なのだろう。

伊勢宗瑞の人柄

 あとがきで司馬さんは北条早雲は教師然とした人物にしたかったと語っている。

 それまできちんとしたかたちでは無かった、民衆の生活のことまでこまやかに指示している。

 そしてあまり焦りの無い人物として描かれる。とても歳を取って興国寺のあるじになり、やがて伊豆をとり小田原を取るのであるが、これらは六〇を越えてやっていることである。そこからさらに粘り強く待って、相模半島の三浦氏を討つ。それも焦ってやるのではなく、隙が出るまでじっくり待つのである。小田原がいくら脅かされようとも、相手に隙が出るまで待つ。どこか「まあその前に死んでしまったらそこまでだ」と達観している人物像。そこが個人的には好きである。

 そんな人物が形成されるまで司馬さんはやはりじっとまったらしい。この作品が書かれたのは司馬遼太郎が六〇代に入るか入らないかの時期だろう。刊行されたのは、昭和五十一年、司馬さんが六十一歳のときだ。そういう年代の気分と符合したのかもしれない。

間違うと劇薬! ブラック企業化を支える理屈になる司馬文学

 とちょっと過激に書いたが。

 司馬良太郎の作品、特に維新から近代にかけての文学には必ず、「奇跡的な大衆の活動」というのが出てくる。たとえば、「坂の上の雲」でも登場する。ロシアと日本海海戦を行う前に、呉に艦隊が帰港してメンテナンスを行う。こういう船には一定期間海上にいると船底に牡蠣がびっしりくっつくらしい。これを定期的に除去しなければならないのだが、恐ろしく短時間でこれを行ったという記述があったりする。(曖昧な記憶で書いているので詳細は間違っているかもしれない)

 司馬遼太郎は全体的に、「民衆の努力で築いた国家を、一部の馬鹿エリートが台無しにした」という近代の見方がある。どうして一部の馬鹿が登場してしまうのかというと、それは「頼うだるお人」という感覚がないからだ。民衆が見えていないからだ。司馬遼太郎は、まったく違う時代を描いているようでいて、ずっと日本の近代国家を批判しているのである。

 ところが、NHKなどのテレビでもあるのだが、「民衆の努力で」という部分だけがピックアップされて、本来セットである「頼うだるお人」の部分が抜けているのである。これは現代でも、政治家・企業の経営者などが持つべきなのだろう。もっといえば、原理的に言えば株主などの投資家も持たねばならない。

 こういう感覚が抜けていると、「民衆の努力」だけが一人歩きして、ブラック企業ができてしまうのである。だって、国家がひどいのは「民衆の努力不足」で片付けられてしまうからだ。そこをすべて背負う覚悟のないものがトップに立てば、それは悲惨な物になる。

 

 ではどうするか、どの単位の組織、学校のクラスから始まって、企業の一部署でもいい。他部署と合同でもいい。「頼うだるお人」を探して担げばいいのである。

 実は近代文学ではそういう話はほとんどない。そしてアニメ・ゲームにはなぜかそういう「普通のヤツが勇者として担がれる話」が多く存在する。昔はこの役割を軍隊ものの英雄譚が担っていた。面白いものできちんと不足は補完されるのである。

masarin-m-dokusho.hatenablog.com

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新装版 箱根の坂(上) (講談社文庫)

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新装版 箱根の坂(中) (講談社文庫)

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新装版 箱根の坂(下) (講談社文庫)

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