池上彰「世界を動かす巨人たち<経済人編>」
夏休みももうすぐ終わり。
宿題に追われている子どももいることだろう。特に読書感想文はだるい。
ちょっと前は、夏休みの宿題の量も減ったらしい。そのぶん、私立受験対策のための勉強をしてくれということだったらしい。今はその反動か、宿題がしっかり出ると聞いている。
結局何を読むのか考えるのがだるい。
そんな子どもには伝記を勧めてはいかがだろうか。
人の人生ほど面白いものはない。しかも伝記は人生を面白おかしく読めるように編集もしている。
この本は、安定の池上彰ブランドである。
普段の池上彰の番組のように、この本も読みやすく書いてある。
誰のじんせいが書かれているかというと、
ジャック・マー、ルパート・マードック、ウォーレン・バフェット、ビル・ゲイツ、ジェフ・ベゾス、ドナルド・トランプ、マーク・ザッカーバーグ、ラリー・ペイジ&セルゲイ・ミハイロビッチ・ブリン、コーク兄弟(チャールズ・コーク、ミハイル・コーク)
である。
それぞれがとても面白い。
最近でいうとIT起業家はかならず自分がアウトサイダーだということをアピールする。いかに、自分が学生時代に落ちこぼれであったかを話す。もしかすると新しい産業で成功するときにおこる「あるある」なのかもしれない。かの発明王エジソンも、自分がいかに学校になじめなかったか、というエピソードがある。基礎的な小学校の勉強は母親から教わったというエピソードを読んだことがある。
それが、ジャック・マーの経歴に現れている。自分がどれだけ学力や就職で苦労したかを語る。だが、そこは語り手が池上彰ということで、それが嘘だと見破られる。
結局新しい産業では、専門家と民間人の技術に差がないからである。それが徐々に逆転される。そうすると、専門教育を受けるメリットが増して、やがて経歴的に学力が低いということがなくなっていく。
また言い方は悪いが、マードックなど、ホリエモンの元ネタのような人物も出てくる。そんな発見もある。
そんな自分なりの発見がある本で、それを読書感想文で書けばいいじゃん。
個人的にはバフェットとマー、ザッカーバーグが好きである。はったりという意味では似ているのだが、マードックは嫌いだ。可愛げがない。
プレジデント二〇一七・五・二九号「孫子の兵法」
先ほど報道で、小池都知事が脱藩じゃなくて、自民党を離党した。
バックナンバーになって申し訳ない。
先日締め切りの短編小説の集いの作品を書いていてなかなか読めなかったプレジデント。普段買うわけではないが、「孫子」の文字を見て衝動買いしてしまった。
小池都知事は孫子の兵法に小さな頃から親しみがあったそうだ。お父さんは貿易商であった。その後、石原慎太郎が新党を結成することをにらんで、その前段階の会の推薦を受け、神戸から立候補するが落選する。その父が、小池百合子が幼少の折、「日本は戦略をもたなくてはならない」と戦略について話していたそうだ。そして小池自身、「丸」という今では軍事専門誌、かつては総合誌だった雑誌の愛読者だった。またマーケティングも好きなのだそうだ。「孫子」関連本も多くもっている。
これまでの都知事選を「孫子」になぞらえて池上彰とともに解説していく。
が、そのなかに「勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」というのがある。戦う前に十分な準備をしてから戦うものが勝つというものだ。当たり前のように聞こえて、案外できないものだ。
また、「始めは処女の如くにして、敵人、戸を開き、後には脱兎の如くにして、敵、拒ぐに及ばす」という言葉も出てくる。池上彰が対談を振り返って書いたエッセイの中に出てくる。
つまり、敵の油断を誘っておいて、あとは速攻するということだ。
二つの言葉を合わせると、小池百合子の脱党ではなくて離党は、「準備が完了した」ということを示す。
離党という記事を見て、ちょっとにやっとしてしまった。
小池百合子の都知事選を見ていて思ったのだが、一番好感を持てるのが、公約などに「女性(のみ)が活躍できる社会」とか「生活者視点」とか、政治ができるわけないことを書いていなかったことだ。
別に自分が女性なんかどうでもいい、と思っているわけではない。「女性中心」といえば男性が除外される。男性でも同じだ。若者といってもいいし、老人といってもいい。面白いことに、「全員活躍できる」と書いている。「人の耳目を一にする」と言う言葉に沿っているのかもしれない。これは「将卒の統率が大事」という意味だ。だれも自分に関係のない言葉には注意を払わない。
面白いと思ったので興味のある人は読んでみるとよい。
ただ、後半はいただけなかった。
ソフトバンクの孫正義は孫子が好きだ。その思想を、二五文字の漢字にして示した。問う話は有名だ。そこから孫正義の略歴が語られる。大体みな知っているだろう。
そして、個人の生き方に「孫子」はあてはまるかという特集が為されていた。
そのあとは、色々な業種の企業が危地をどう脱したか、斉藤孝が解説する「頭の良い子どもを作る方法」というのはどうでもいい。というか、興味のある人間は見ればいい。ほとんど孫子の言葉は付け足しである。結局、成功する前に孫子を利用して動き勝たないと、意味がない。
問題は個人の生き方に「孫子」は通用するか、だ。
例えば、「リストラを命じられたらどうするか」などというケーススタディになっている。そこに書かれた正解は「まずは残したい部下と面談し、味方を作れ」である。ただ考えてほしい。上司はあなたのことが大切な部下だと考えたら、恨まれるリストラなどを頼むだろうか。それにリストラをした上司に部下が信頼をよせるかどうかは、ある種の賭だ。特に今の若手はすぐに職場を去るのだから、一気に冷めて辞めてしまう可能性もある。
だから、答えは「あきらめて粛々とリストラをする」である。おそらく部下に嫌われるだろうが、それはしかたがない。
このあたりを読んでちょっと冷めた。
又吉直樹「劇場」を読む。
ここから、感想を書くが「劇場」を読んでから、この話を読み進めたほうがよい。
この作品を端的に表現すれば、「ベタな内容な物語を作者の文章力で装飾した」作品だ。ただ世の中の小説を面白いものと面白くないものに大雑把に分ければ、確実に面白い方に入る。しかもかなり高いレベルで。何よりもこの小説のことを考えるのは楽しい。
主人公永田、その恋人沙希の出会いとその関係性が純愛であることから、最終的にどうなるかは察しがつく。大ブームとなった「逃げるは恥だが役に立つ」の逆だろう。逃げ恥の新垣結衣はかわいいけれども、沙希はあまり美人に感じないのは私だけだろうか。下北沢にはたくさんいそうだけど。
読者の目線からすれば二人が最終的に別れるという展開は容易に想像できる。沙希は初めから無理をしすぎている。それにあまりにも将来のことを話さない。作品上は別れる理由は明示されていない。理由はあったはずだが、最後の最後で打ち消されてしまう。本人たちが気づいていない形で理由は進行している。
強いて明示されている理由を言えば、青山という女性の存在が理由である。おそらく二十代半ばであろう女性が、相手のことが嫌いだからといって、作品中のような行動をとるのかどうか。そのあたりに少々違和感をいだいた。むかついたらもう関わらないのではないだろうか。しかも永田からいったんは離れていっている。わざわざ青山の方から関係を修復することは、通常はないだろう。
本来は沙希に対して嫉妬の理由を用意すると、すっと読めたのかもしれない。沙希は気づいていないが、実は青山は沙希が嫌いならば、このような行動も合点がいく。ただ、文章としてはあまり美しくないものになる。青山はその場合、目的を達するために複雑な行動をとることになり、それが物語にとってはノイズになるからだ。
ただ、昔に比べて男も女も通常の年齢より幼い感じがするので、あり得ない話しではないのかもしれない。沙希を徹頭徹尾、内面が美しい女性として描いているので、青山のえげつなさが際立つ。こういう女子(とあえて書く。普通は若い女性限定の行動だ)は自分が絶対の正義をもっていると勘違いしている分、たちが悪い。本当に悪い。
古典作品のような骨太さを持つ物語であるが、古典的な古い人間観を引きずっているようにも感じる。背後にシェイクスピアの顔が見える。青山は狂言回しなのである。
また物語が先に存在し、人物を物語の都合のよいように配置したのだろうと勘繰ってしまう。それくらい物語にとって人物たちの存在が、都合がよすぎるのである。
沙希の考え方も行動も古い。受け身すぎるのである。もちろん、そこは又吉も意識していて、あるシーンで反論する。だが、沙希みたいな若い女性を今探すのは大変だろう。
さて、最終的に破局は「自分が悪い」と二人とも思っている。ならば、別れる必要がない、と感じるのは私だけだろうか。どうして自分が悪いと思っているのかは、もしかするとこれから読むかもしれない読者の為に書かない。
中学時代からの親友で、劇団「おろか」をともに主催する野原が位置的にもう少し活躍してもよい気がする。もしかすると、野原に沙希を強奪されるのではないかと思っていたが、肩透かしを食った。
この物語は確か大幅に書き換えられているはずである。野原は前の作品ではもう少し別の存在だったのかもしれない。あえて書く必要がない気もした。
前作に比べても今回の作品は文章が読みやすくなっていると感じる。
関西の小説家の癖なのだろうか。読後感をよくするために最後に綺麗なシーンを入れる。しかし、冷静になって読んでみると、とんでもないことに気づく。作品が最後に全部打ち消されてしまうのである。二人の関係は、いったいどのようなものなのか。なんとなく、読み手の性格が反映されてしまう気がする。ちなみに、私は全部幻想だと取った。上段で、人物の配置が物語の都合に合わせすぎている、と書いたが、二人の関係もある意味お互いに都合がよいから存在していた。純愛でもないのだろうと思った。
新宿から神宮の辺りまではよく散歩することがあったが、場所の雰囲気がよくでていた。場所をとても大切にしている小説である。あの辺りの店って、誰に商品を売りたいのかわからない。すごく狭い商圏である。その空気がよくでていた。
読み終えて、数時間経ってから書いているが、もう少し悲劇性があってもよいかもしれないと思った。もしくは、二人で乗り越えちゃった方が、今の読者が望む形にはなるだろう。ただ、太宰治好きとしてはあのような展開になるのは必然なのかもしれない。
結局は二人の悲劇性はまるで解決されないという、ある意味心中するよりも不幸な小説である。これから読む人は、覚悟をする必要がある。文章を味わうという意味では今現役の作家ではトップクラスの味わい深さがある気がする。
逆説の日本史22
井沢元彦が長年執筆を続けてきた、「逆説の日本史」が折り返し地点? にたどり着いた。
簡単にいえば、近世が終わり、いよいよ近代に突入する。その手前まで終わったということだ。具体的には西郷隆盛が反乱を起こす、「西南戦争」まで終了した。
終了記念ではないが、補遺(書物などで、漏れ落ちた事柄をあとから補うこと。また、その補ったもの)が収録されている。その部分について今回は触れていきたい。
「漏れ落ちている」部分とは、
このシリーズの目的とは「通史を書くこと」である。それも、いわゆる歴史学会が作り上げた日本史の欠如した部分を補完しながら書いている。その欠如した部分は三つあると井沢は言う。。
1,資料偏重主義
2,宗教的な知識の欠如、もしくは無視。
3,権威主義
の三つである。この部分を補完しながら日本史の通史を書こうというのが目的である。古代(平安時代まで)は三つの欠如が十分に説明されている。が、鎌倉時代からはそれがちょっと鳴りを潜める。どうしてなのだろうか、と思っていたが、その部分についての説明も行われていた。
井沢は、日本には二つの文化の相克があると考えている。それは「縄文文化」と「弥生文化」の二つである。このシリーズの最大の特徴である、「ケガレ」という文化は「弥生文化」の発想であるとしている。主に縄文文化=東日本中心、弥生文化=西日本中心に展開している。だから西日本には部落差別が多いのだそうだ。
この指摘には少し無理がある。
東日本の文化である江戸幕府にも「ケガレ」の発想がある。江戸の街でも、市外に出なければ禽獣の類いは食べられなかった。隅田川の周辺、特に市外側を行くとももんじ(猪)料理屋さんが並んでいるのもその名残だろう。徳川政権自体が東日本(静岡)出身の政権であり、本当は井沢の言うところの弥生文化が入る余地はない。
政権が長期化すると貴族化する、貴族化すると「ケガレ」的な発想が顕在化するというのが正確なのだろう。
これは日本だけの傾向ではなく、様々な国は差別を旨く利用して統治している例が多い。カースト制とかね。
このように突っ込みどころの多いシリーズではある。妙に信長を持ち上げるところ(井沢は愛知出身)や、やや妄想なんじゃないかという見解もある。が、作家の書く日本論だと思えば楽しめる。
よく著書のなかで憲法の問題などを口にする。
ということは、井沢が書きたいのは近代なのだろう。ここからがやっと本論である。
個人的には、書き終える前に死んでしまうのではないかと思っていた。雑誌で連載しているのだが、一回ずつの分量が少なく、しかも必ず冒頭で前回の展開を振り返っていた。このペースで終わるのかと思っていたが、なんとかなりそうである。
「現代落語論」立川談志
先年、といってももう2011年だからずいぶんと前になるが、なくなった立川談志が書いた本である。帯には、「これが落語家がはじめて書いた本である」とぶってあった。そんなものか、まあ噺家なのだから当たり前か、と文言を見て思ったが、はたして本当かどうか。
談志の落語論といえば、「落語とは業の肯定である」という有名な文言がある。それは続編の現代落語論に書かれた文句である。その節は、落語協会と真打ち昇進に絡んで揉め、協会脱退、周囲はみんな敵という状態だった。起死回生の一撃と言わんばかりに、続編を書いた。
この本はその前の本で、落語家になるまでの経緯が書かれている。
「三つ子の魂百まで」と言う。
四十になって思うが、人とはそれほど成長も変化もしないものである。すごい人間とは昔からすごいのであり、そうでもない人間はそうでもないのである。
ただし、すごくないのに、周囲の環境が変化して、すごいことになっちゃったという人間はいる。昔は蔑まれるような奴らだったコンピュータ好きが、いつのまにかIT長者になったりする。それは本人がすごいのではなく、環境の変化がすごいのである。
やっかみか。
談志はどうかと言えば、本人の言を信じれば、昔から談志なのである。
数学と国語・漢文の授業は聞くけれども、その他はハナからバカにして聞いていない。銅線とか真鍮とか拾っては売っぱらってそれを元手に寄席がよいをしていた。おそらく朝鮮戦争の時期で、金属が国内で不足していた。特需である。だから、こういう芸当ができるのだろう。
教師に対しては裏切り者という意識が強い。この頃の教師に対しては、子どもはこういう意識を持つことが多いらしい。第二次世界大戦が終わり、教師たちが教育を次々と民主教育に鞍替えしていった。その無責任ぷりに、こいつらは嘘つきだと子供心に思ったそうだ。以前、本屋で平積みになっていた大江健三郎の本に、「その日から私はあまりの世界の転変に高熱を発し、高熱を発したまま森へ行った」というような内容のことが書いてあったが、それは誇張だと思う。
そのおかげで松岡少年(談志の本名は松岡克由)は寄席という学校以外の世界を獲得する。そしてやがて柳家小さんに弟子入りする。ちゃらんぽらんにやっていても、高校へは行けたのだから、バカではない。それでも中退してしまう。
前回司馬遼太郎の新書を引いて、「いまも昭和三十年代もサラリーマンはさして変わらない」というようなことを書いた。が、もしも昭和時代と平成時代の少年を比べたとすれば、「外の世界をもっているか」という点は違うと思う。
今は社会全体が学校に若者を閉じ込めようとばかりしている。管理社会が問題になったのは八〇年代のことだが、今の方が管理というより、監視の目が強くなっているような気がする。
世の中色々な人間がいて、もちろん学校や学校の延長のスポーツで成功する人間も居るが、学校の外には様々な世界があって、もしかするとそっちの方が君は向いているかもしれないよ、ということを若者が学びにくい状況になっている。
卵子に群がる精子のように、猫もしゃくしも優良企業に行くのが成功だという風潮は窮屈である。成功たって、年間ウン億円稼げるわけでもなし。
そんなことを考えながら読んだ。
本書ではもちろん落語について語っているのだが、その豊かさに感心してしまう。ちょっとでも落語に興味がある人は是非にお読みください。
おっかない談志の人間的な魅力が(男子自身はこういう風に言われるのを嫌いそうだが)よくわかる一冊である。
逆説の日本史&「家康研究の最前線」
安倍晋三首相は、自身が長州出身であることを誇っている。
それについて否定するつもりはない。
逆説の日本史という、井沢元彦がライフワークとして続けているシリーズがある。資料偏重主義の日本史の学者が見落としがちな、その当時の常識を駆使することで、新しい歴史的な見方を作っていこうというシリーズだ。
今二二巻を読んでいて、内容は幕末から明治維新にかけてをやっている。
ちなみに、この時代は人気があるのだが、大河ドラマなどではそれほどの視聴率を出さない時代でもあるらしい。どうしても戦国時代が強い。ちょっとイカレてて、陰惨な空気があるからか。意味のあるのかわからない暗殺などが暗躍している時代だから。新撰組とか、冷静に考えるととんでもない殺人集団である。どこに正当性があるかどうかもよくわからなくなってくる。
これは世の常だが、不正というのが多く発生した。
ちょうど井上馨が不当に官営工場を払い下げしたところを読んでいて、「長州人は金に汚い」と井沢元彦が言い切っている。それを読んでいるときに籠池理事長率いる森友学園問題が発生して、本当に笑ってしまった。その印象もあって、「まあ、なんかやってるんだろう」と思ってしまった。
歴史研究者と歴史小説家をどこでわけるかというと作中に筆者の考えや感覚が登場するかどうかだろう。小説というのはどこまで分け入っても、最終的には私小説なのである。
「家康研究の最前線」は一方で、井沢元彦にくさされている、資料偏重主義の極地である。ところが面白い。
家康の出自や一向宗との関わりなど、最新の研究を踏まえて、多くの学者が成果を論述している。
結局近代以降でもそうなのだが、政権が大幅に変わった場合、新しい政権は自分たちを礼賛する歴史を作り上げなければならない。それによって、正当性が担保される。今安倍政権が考えている歴史の定義を新しく書き換えるという作業も、その延長線上にある。歴史とは政権から自由になれないのかもしれない。常に「忖度」、「斟酌」した側が生き残る。
明治政府がそのような書き換えを行った前は、徳川政権がその正当性を作り上げるために、歴史の書き換えを行った。それが、いわゆる神君家康思想なのである。つまり、政権運営に都合の悪い家康の事実などは隠蔽される傾向にある。その思想でいえば、家康は源氏の血を引いていることになる。もちろん、嘘だろう。
それに豊臣政権のなかにおける家康の位置も実際とは違う形で歴史として伝わっている可能性もあるらしい。家康は秀吉にとって、ライバルというよりはよき家臣として存在していた。通説である、「関東転封は疎ましいと思っていた家康を政権中枢から遠ざけるために行った」のではなく、「東北の押さえとして、信頼する家康を送った」らしい。
このように資料をもとに行った、家康像を事実に近づける作業は読み応えがあった。
生き方を見直す。「不運と思うな」伊集院静
他人のせいにして生きるのは楽だ。
国のせいにするのは楽だ。
時代のせいにするのは楽だ。
とかく人は不遇をかこったとき、自分以外の何かに原因を求める。納得いかない人生を、そうして落トシマエをつける。できればだれも傷つかない、大きな集団の方がよい。だがその矛先が弱者へ向かうことがよくある。であったことのない他者へ。そうして差別が始まる。
本書のテーマは「引き受ける勇気」だ。
不遇を運・不運のせいにしない、ということは自分の人生と真っ正面からがっぷり四つに組むということだ。
存外、これが難しい。
伊集院静の今の妻は篠ひろ子だが、前妻は夏目雅子だ。白血病のために夭逝した。またもっと若いころに、父親と弟を亡くした。伊集院の人生にはとかく死がつきまとう。
かつては、亡くなった人々の再生を願っていた、と伊集院は言う。ところが、最近は変化したらしい。
文字通り冥福を祈るようになった。亡くなった人々の短い人生の中にも四季があり、紆余曲折があった。それはそれで充実した人生であった。そう考えるようになったからだ。
本書に幾度も登場する出来事がある。それは東日本大震災だ。
自宅のある仙台で彼も被災した。その時の経験が死生観に影響を与えたに違いない。海岸線に横たわる無数の被災者の様子を伝える報道のシーン。自身が被災し、多くの人々が難渋した未曽有の大災害の前では、どんな人生でも納得しなければならない。否定などできない。他人のせいにできない。「自分は不運だ」などといじけることもできないのである。
自分の人生を引き受ける生き方とは、美しく生きることと同義だ。いつ死んでもおかしくないと構え、言葉一つにも注意を払う。想像力を働かせる。
スティーブ・ジョブズの生き方とは違う。彼は毎朝、「今日が最後の日かもしれぬ」的なことを言って覚悟を決めていた。そして他者に対しては、ご無体な要求をしていたらしい。敵も多かった。
伊集院の場合は他者に対する尊敬が基本的に存在する。美しく生きる者へ対する尊敬。自分のダメさも引き受ける。酒におぼれて朝ホテルの床で寝ているという体たらくも引き受ける。本当に駄目な奴には嫌悪するのだが。
それにしても、目上の人間についでに頼みごとをするのをいやがったり、ものの頼み方の手順が雑だと怒るのは、ちとやり過ぎかもしれない。目上の人の携帯に電話するのは無礼とか、10回以上コールするな、とか。よっぽどまのわるい編集担当がいたんだろうね。
以前ビートたけしが伊集院静の生き方を「非常にかっこいいだなあ」と褒めていた。そんな伊集院静の生き方がよく出ている本である。
不運と思うな。大人の流儀6 a genuine way of life
- 作者: 伊集院静
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「ゲゲゲの鬼太郎」に影響を受けた有名人。結構深いよ。
個人的には「ゲゲゲの鬼太郎」は今回書く文庫版の一巻から五巻で一応の形が完成する。
「ゲゲゲの鬼太郎」の影響
ラジオを聞いていて、映画、アメリカ評論家の町山智浩が、「ゲゲゲの鬼太郎の影響を強く受けている」と発言していて、「へへぇ」と驚いた。鬼太郎は妖怪ものと侮るにはおしい魅力のある作品である。大人になるとそれはよくわかる。人間の負の部分もきちんと描いている作品だからだ。しかし、町山智浩が好きだとは思わなかった。
「ゲゲゲの鬼太郎」のお話の型
みなさんは「ゲゲゲの鬼太郎」のお話にどのようなイメージを持っているだろうか。鬼太郎と彼の妖怪仲間が、敵の妖怪を倒す、そういうイメージだろう。それで間違っていない。ただ、妖怪との抗争が人間のせいで発生するというニュアンスはなくなっていくのか。
この悪くなってしまった妖怪とは戦うというイメージは、水木しげる水木しげる自身の幼少期にあるのかもしれない。戦間期に多感な時期をおくった水木しげるたちこどもも、軍隊と同じくらい、好戦的であった。「のんのんばあとおれ」にそのことは詳しく書かれている。
鬼太郎は差別を受けやすい境界の人
ちょっと本格的なことを書くと、鬼太郎というのは「境界にいる存在」である。宮崎駿の作品ではよく使われるモチーフである。「風の谷のナウシカ」のナウシカ、「もののけ姫」のサンとアシタカなどがそうだ。
鬼太郎は人間と妖怪との混血で、どちらかというと、人間の仲間につくという存在は、得てして人間からはうまく利用され、妖怪からは疎まれる。もっとも差別に会いやすい位置にいる。
それによって、外国のドラキュラたちと大抗争にもなる。
鬼太郎の場合は少年誌ということもあり、両方から認められた存在である。結局双方にとって、役に立つ存在だから認められるのであるが。困ったことがあると、一反木綿や子泣きじじい、砂かけ婆、ねこ娘などの味方が頼る。ときに鬼太郎の方が助けられることもある。五巻くらいまでは、多々助けられる。
現実社会でも同じで、差別を受けるものは、差別をする人間にとって、役に立たないと存在を認められない。「ゲゲゲの鬼太郎」はそんなペーソスにあふれた作品だ。
ねずみ男の活躍
ところで、そんななか、五巻まではねずみ男の活躍がめざましい。
ねずみ男も鬼太郎と同じ、人間と妖怪のハーフだ。妖怪のエネルギーでもある妖気を吸い込む妖怪が出てきても、半分だけ吸われたりする。
そして鬼太郎が境界の人間として、双方の役に立つという行為で立地しているのに対し、ねずみ男は双方をうまく渡り歩くという行為で身を立てている。故水木しげるがもっとも好きなキャラクターに挙げるねずみ男。金儲けや自分の利益になりそうなときには、妖怪や人間をだまそうとするくせに、鬼太郎が出てきて形勢が逆転しそうになると、ちゃっかり鬼太郎側に与する。そういう巧みさがある。そして、結局発端がねずみ男なのに、殺されもせずに存在している。
ねずみ男はなにを象徴しているのか。
どうもねずみ男は大衆を象徴している気がしてならない。
はてなを見ていても思うが、大衆とは逃げ方がうまい。がっちり炎上させておいて、それが誤解だとわかると謝罪も何もせずに逃走。ただ、世の中勘違いでできている。おっちょこちょいでいいのだ。やられた方はたまらないけれども。
水木しげるは、独特な暗く、濃密な絵柄、人生観が入った物語、誰の作品でもそうだが、私小説のような側面を丹念に読み解いていくと、大人でも楽しめる作品になっている。機会があったら、一巻だけでも読んでみてほしい。
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ゲゲゲの鬼太郎 1 鬼太郎の誕生 (中公文庫 コミック版 み 1-5)
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「のんのんばあとオレ」には少年時代の大切なことが全部詰まっている。
あらすじ
のんのんばあは、茂少年のうちの近所に住んでいた。
拝み屋をしていて、信心深い。そのおかげで、妖怪などの知識も豊富だ。茂少年は貧乏なのんのんばあのうちへ行っては、妖怪の話を聞く。聞いているうちに茂少年も妖怪や怪異に詳しくなっていく。
のんのんばあの亭主は茂が小学生に上がる直前に死んでしまう。路頭に迷うすんでで、のんのんばあは茂少年の家、村木家のお手伝いさんとなる。
茂少年の住む田舎は、まだまだ妖怪などが信じられている場所だ。不思議なことが多く起こる。その怪異がどうしておこるのか、妖怪に精通しているのんのんばあが解説し、解決していく。
少女たちとの恋や別れを経験しながら、茂少年は成長していく。
感想
物語の軸は、少女たちとの恋とガキ大将率いる軍団同士の抗争、そしてしげるが絵物語を作っていく、という三つである。ときは戦間期(二つの対戦の間)、不穏な空気に日本中が浸されていく寸前である。ガキ大将たちの遊び方にも、軍国化していく様が大いに反映している。戦うために訓練し、無意味に隣町の少年たちと抗争していく。この構造を、茂が最終的に変えるのであるが。
少女たちとの関わりも悲しい最後になるのだが、それが水木しげるの異界への興味を引き立てて行く。そういった水木しげるの、「今となって考えてみれば」という形の自己分析が入っている。
しげるを取り巻く人々の魅力
この作品の魅力は、島根県という場所の魅力と、人々の魅力に尽きる。
父親は地元で初の東京の大学出身者である。ただ、帝大かどうかはわからない。作品中の行動から察するに、人文系の学部の出身なのだろう。厭世的な人物である。妖怪に夢中になり、絵物語を描き続けるしげる少年の良き理解者。
母親は元名字帯刀の武家の出。それを誇るのを口癖にしている。が、それほど嫌味ではなく、牧歌的な性格である。口癖の割に流されやすい性格でもある。父親が映画館をやるという夢を語り、それに始め反対をするのだが、結局はもぎりまでやってしまうほどのめり込む。
少年たち。しげるのライバル・カッパを始め、少年たちは大衆的性格を持っていて、とても愛嬌がある。
水木しげるは自分の描いたキャラの中で一番好きなのはねずみおとこ、というくらい、大衆を描くのがうまい。それは、もともと実家の武良家(作中では村木家)が豪商であり、ちょっと大衆より高所より状況を見る感性を持っていたからだろう。大衆の中にいて、大衆を描くのは困難である。なぜなら、大衆は自分が大衆に属しているとは思っていないからである。ちょっと距離がないとスケッチはできない。
「わかっちゃいるけれども」という人々の魅力が詰まっているのが本作だ。
才能を磨くには
また、状況がしげるの才能を追い込んで行くというのも面白い。ガキ大将の頭を決めるのに、しげるはゆえあって、「相手なし」つまり村八分の扱いになる。だが、しげるには絵物語を描くという楽しみがある。だから、めげないのである。逆に創作に時間が避けるようになる。
才能を曇らせるのは自己の性格である。友達がいないという状況を、「悲劇」ととるのか、「時間ができて良い」ととるのか、それは性格で決まる。ネットを見ていると、人的ネットワークを広げる重要性がよく説かれるが、その延長にあるのは「パリピ」程度の人間関係だ。だいたい、自己の能力を研鑽するときには、他人の協力など不必要だし、いるだけじゃまなのである。ただ、たいていの人間は「わかっちゃいるけれども」なのだけれども。
牧歌的な作風のなかに、人生の機微がきちんと入っているのがこの作品の魅力である。
真田太平記(1) 天魔の夏
おそらく、このドラマを描くに当たって、この物語を意識しないでは書けなかったと思う。
あらすじ
話は武田家滅亡の時期から始まる。長篠の戦いで負けた武田軍は織田・徳川の猛攻に遭う。高遠城も信長嫡子の織田忠信軍に囲まれて、落城の危機にあった。向井佐平次も籠城軍のなかにいた。立木四朗左衛門旗下の部隊にいる。
包囲軍から城を守るために、立木四朗左衛門部隊は、あえて城門から突出して敵軍に突っ込んだ。無謀な戦いで負傷を負った佐平次は、謎の女お江(おこう)に助けられる。お江は真田昌幸の草の者であった。お江は重傷を負った佐平次を助け、真田の庄まで連れ帰る。
一方の真田は織田信長がどう裁量するかが分からない。当主昌幸は武田家からも集めた草の者を駆使して、他国の情報を収集する。草の者のなかには、特に信頼を置く壺谷又五郎がいた。又五郎も武田の忍びのものであったが、願い出て勝頼から招いた。勝頼は草の存在を重視していなかった。
昌幸には二人の息子がいた。源三郎信幸と源二郞信繁。信繁はのちの真田幸村と呼ばれる武将である。昌幸はどうしても源二郎を贔屓にしてしまう。そこには秘密があるのだが、それは後に分かる。
先の高遠城から脱出した佐平次は傷が癒えた後、源二郎の部下となる。
さて、信長はあと中国・四国・九州を攻めれば天下統一は達成される段階にあった。そして、本能寺の変に遭う。乱の首謀者は明智光秀。光秀は天魔に魅入られた。
大河ドラマとの違い
多くの違いがあるが、一番の違いは登場人物の性格だろう。
昌幸はもう少し癖のある性格である。そして、源二郎はもう少しあどけない。無茶をする性格でもある。源三郎はちょっと冷たい感じがするが、当主としての性質をすでに発揮している。真田丸の初期のように、誰も彼の話が聞こえないということはない。
出浦昌相は今のところ登場していない。壺谷又五郎というのがその代りである。
忍びの者の存在が大きい。お江などそれぞれの忍にも物語がきちんと用意してある。全部で一〇数巻あるだけのことはある。
よみどころ
池波正太郎の作品で、これは本気で書いたという感じが一巻の出だしからビンビンする。力が入っている感じが良く伝わる。だが、一〇数巻読ませるだけのなめらかさは当然ある。読んでいて疲れないのである。
実際に書き出す前には、三年はかかる、と考えていたが、書き出すと八年近くかかって書き上げた長編だ。全てをつぎ込んでいる。話を先に進めるためには、真田丸のように真田家に直接関わる部分だけを書いて、そのほかの忍びの部分は軽く書けば良い。そこを思い切り書いている。書きたいことをふんだんに盛り込んでいる。逆に言えば、そうすることでそれぞれの人物に対して思い入れが出てくる。
実にうまいが、信長が武田家を滅亡してから十数日間の出来事を描くだけで、ほぼ一巻を費やしているのはすごい。
鬼平犯科帳のように軽い感じで書いている文章とは違う、本気の池波正太郎を味わってほしい。